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03


 夜の帳の静けさに沈む庭先には、気持ちの良い風が吹いていた。ゆるい空気の流れにまかせて、木々の梢が優しい音を奏で、どこかでずっと鳴いている、か細い声の虫と夜のメロディを作り出していた。
 懐かしい母の姿を思い起こして、ヘルツは言葉をそこで途切れさせる。
 見上げた夜空には相変わらず止め処なく星の雫が輝き、その間を縫うように光の筋が駆け抜ける。
 儚く燃え尽きる、宇宙に比べれば取るに足らない小さな塵。
 だがどんなに取るに足らなく刹那で消えていくとしても、確かにそこに存在していて、命の代わりに見る者に何かを伝えようとするよう輝く塵だった。
「…それは?」
 そっと、少女の声が空気を震わせた。ヘルツの心に慮るよう、穏やかな、そして優しい声だ。
 先程まで寝転がっていた 嬢は、彼が過去へ心飛ばし語る間に、身体を起して膝を抱え込み座っていた。体を抱き締めるよう回した腕に小さな頭を横向きに乗せ、ヘルツを覗き込むように見ている。
 己の着せた上着に埋もれる少女の姿が可愛らしく、ヘルツは栗色の瞳を和ませた。そして懐かしい母の面影を辿り、その言葉をひとつずつ丁寧になぞった。
「星の涙は、ヴァルハラへ渡る人の心の名残だからと。残された人を心配した魂の想いの丈だからと、母はそう申しておりました」
 その頃は、母の言葉の意味がよくわからなかった。
 それでも星の涙は得られないのだということはわかって、痛いやら悲しいやらで泣いてしまったと伝えると、その頃のヘルツよりは少し年嵩の少女は、砂糖を溶かしたような甘く想いを馳せるような微笑みで言う。
「素敵なお母様ですね。ヘルツ大尉の人柄に、大尉のお母様の面影が偲ばれます」
 亡くした者を想う気持ちを、少女は知っているかのように語った。
 少しだけ、ヘルツは不思議に思う。彼の主家にあたる子爵家の令嬢は、いまだ十歳の幼さであり、彼女の両親は共に存命だったからである。
 けれどもそのような詮索は一旦置いて、彼は再び口を開いた。話の趣旨は、なぜ自分がここにこうしているのか、というものだったから。
「そうして小官はその後、星になんとなく興味を抱きました。相変わらず空を見るのが好きな子供でしたし、宇宙へと行ってみたい気持ちも膨らんだのです。とはいえ我が家は貧しく、恒星間旅行など夢のまた夢でした」
「もしかして、ヘルツ大尉が士官学校へ入ったのは…」
 少女の言葉を引き継いで、彼は笑って言う。
「ご想像の通りかと存じます。普段はそこまで強く意識していなかったのですが、進路を決める15の歳に、ふと星を間近に見られる宇宙で働く職業がいいかと思いついたのです。幸い成績の方は問題なく、士官学校への推薦も受けられました。とはいえ実は経済的な事情もあって選択肢は殆どなくて、士官学校へ進んだのはなるべくしてなった側面が大きいとも言えますね。どうせいずれは徴兵で従軍しなければならないことは明白でしたし、好きなものに近付けるし、その当時は最良の選択をしたと思います。士官学校では二年次に専攻科ごとにコースが分かれるのですが、戦術科に決めたのは航路や軌道計算を行う艦運用部門ならば、航宙図を眺める時間が長くて星の位置や特徴も覚えられるだろうと、そんな気持ちでした」
 おそらくそのような理由で戦術科へ行ったのは、自分だけかもしれないとヘルツは考える。一応は士官学校の中でも花形と呼ばれる専攻科であったし、所属するための選抜試験も存在していた。ヘルツはどの分野でもそれなりの成績を修めており、なぜ戦術を学びたいかという理由を問う形の選抜は行われなかったので、晴れて念願を叶えたわけだった。
「意外に単純な、人生の決定方法ですね」
 少女は、少しばかり驚いたように目を見開いた。
 確かに士官学校へ進むのも、その中でどの専攻科へ所属するかということも、のちの人生を決する大きな転換点である。しかし人生の重要な選択地点であるからといって、その時々に人が必ずしも重大な決断理由となるようなものを持っている訳ではないと、ヘルツは思うのだった。
「人生とはそういうものだと小官は思います。ほんの些細な出来事が、ある局面で重大な選択の理由になったりするものです」
 軍人の道を選んだ理由が、ただ星の涙を探そうとした子供っぽい馬鹿げたことから端を欲しているように。

 云いながら、ヘルツは目の前の幼い少女についていこうと決めた日を思い出した。
 そう、それは本当に些細な出来事だったのだ。
 ローバッハ伯領へ向かう戦艦アウィスを案内する間に、少女の聡明さに感銘を受けたというのもあった。
 しかし本当の意味で彼の中に残ったのは、もっと別の出来事によって心に生まれた細波だった。波長が合うという確信にも似たものを、ヘルツは と接して確かに抱いたのだ。
「小官が 様にお仕えしようと、そう決めたのも些細なきっかけでしたよ」
 ヘルツが首をわずかに傾げて伝えれば、少女は勢い込んで彼へとにじり寄った。
「え、それは是非とも知りたいです! きっかけって何ですか?」
「思い当たるところはありませんか?」
 素直に喋ってしまうのも気恥ずかしくて、ヘルツは混ぜ返すよう問い返す。途端に悩みこんでしまう幼い主とでもいうべき人を見ながら、彼はその時のことに思いを馳せた。
 初対面の場となった戦艦アウィスで一通り艦内を案内し、休憩しようと展望用の外部が視認できる大窓のあるスペースへ立ち寄った時だ。
 昔、幼い自分がした姿を思い起こさせるように、窓硝子にくっついた少女が熱心に宇宙空間を見ているものだから、ヘルツはこう問いかけたのだった。
『宇宙がお好きなのですか?』
 振り返った黒髪の令嬢が、満面の笑みで大きく頷いた。社交辞令という訳ではなく、本当に嬉しそうな表情だ。
『ええ、素敵ですよね、どこまでも広がっていて星がこんなに沢山あるの!』
 言いつつ視線を窓の外へと向けた少女は、でも、と首を傾げて言葉を続ける。
『でも、あれね、星って遠くから見ている方が綺麗に見えると思うの』
『左様ですか? なぜそう思われるのか、お尋ねしても?』
『近くで見たら風情がない褐色の大地だったり、一面ガスで覆われていて白かったりというのもあるけれど、星って遠くで…大気圏の底で見上げて思いを馳せるものっていう印象が強くて。やっぱり煌めいてる小さな光が綺麗だと思いますし、それが星っていうイメージで。ほら、星に誰かの面影を重ねるって言うでしょう? 傍にいない誰かのことを地上の私たちは思いながら見上げて、星になった誰かは上から私たちを心配そうに見下ろしているの』
 星になった誰かというフレーズに、もう随分長く思い出すことのなかった母が、そのとき急に思い浮かんだ。
 懐かしい星の涙を拾う事件を同時に思い出し、私は気まぐれに訊ねた。
『それでは、流星は何だと思われます? 空からその誰かが落ちてくるのですか?』
 少々、素直ではない意地悪な言い方だったように思う。どう答えるか試してみようと思ったのだったか。
 そのような彼の内心を悟ったかどうかはわからなかったが、少女は朗らかに笑いながら言ったのだ。
『流れ星は星になった誰かの問いかけですよ。元気かーって流れて問いかけてくれるの。それで流れ星を見つけたら、私は元気だよ、ってそう答えるんです。消えるまでの三秒間にね。宇宙には流れ星はないですよね…あ、彗星があります? でもあんなに大きな流れ星、いつまでだって見続けていられるから、あれは流れ星とちょっと違うと私は思うんですよね』
 意表をついた返答に思わず浮かべた笑いを、少女は私が考えていたものとは違う意味でとったようだった。
『あ、馬鹿にしたでしょう? 少女趣味でロマンチックすぎるって』
『いえいえ、そんなことは御座いませんよ』
 何しろ、自分も幼いころに似た類の考えを抱いたのだ。その方向性が違うだけで、星に誰かの想いを重ねていることに違いはない。
『お嬢様は、地上で空を見上げる方がお好きなようですね』
『そうですね、宇宙もなかなか捨てがたい魅力があるけど、星は見上げる方が好きですね。私は小さな人間なので、大きな惑星だとスケールが大きすぎて眺める気分にならないんですよ、多分』
 変な子供だと思うと同時に、ヘルツはその時、心の底から面白いと、このように語る子供がこの先どうなるのか気にかかると、そう思ったのだった。
「流れ星を見つけたら、私は元気だと、そう答えるのでしょう?」
 唸りながらヘルツの言う些細なきっかけについて思い悩んでいた少女は、ぱっと顔を上げて彼の姿をその大きな黒い瞳に映した。
「あれ、その話、ヘルツ大尉にお話しました?」
 言った本人さえ忘れている言葉や出来事で、人は容易く動かされることもある。
 その瞬間というのは、計り知れない運命や偶然というものが作用しているのだろう。運命とは、未来がそうなると決まっているのではない。過去に起こった出来事に、なるべくしてなったと納得して名づけられるものを、運命というのだ。
 私が ・フォン・ について行ってみようと思ったのは、だから本当に些細で、根拠は自分にしか分からない類の思いつきだったのだ。
 もちろん、多少の打算はしてある。
 少女はまだ十歳ということで、五年か十年の間にその行く末を見極めて、その間に自分もいくらか昇進はしているだろうから、見切りをつけたならオーディンへ戻って正規軍に編入しようか、という計算は試行済みだ。思いつきだけで人生を棒に振れるほど無邪気な性質は、とうの昔に失ってしまった。
 それでも無為に目の前の役目をこなすだけの日々よりは、誰かに己を、己の思いつきをかけてみるというのも面白いではないかと、いまだ前途を残した若い青年士官は思いつきを信じた。
 少女にとっては甚だ迷惑には違いないだろうが、物足りなさを感じる毎日を送っていた己の前に普通ではない少女が現れた事実は、消し去ることのできない確かな足跡を彼の内側に残していたのだ。
 だから彼女には迷惑の対価にせいぜい己の能力を使ってもらおうと、彼は考えている。

 再び記憶の迷宮に潜り込んだ少女を傍らに、ヘルツは星踊る天蓋を地上から見上げる。
 星の涙。
 人の心の名残。残された人を心配した魂の想いの丈。
 そして遠い誰かの挨拶。
 雨のように降り注ぐ光に、心で祈る。
(私は元気です)
 母親というものはたとえ姿を星に変えても、屋根から落ちた時も、そうでなくこうして辺境の惑星で空を見上げている時にも心配しているものだろう、そうヘルツは思う。
 いつか私も同じように、流れる星となるのだろうか。
 その時は、誰に向ってその光を見せるだろうか。
 ふと、埒もないことが浮かんだ。
「ねえ、それでさっきのきっかけって何ですか?」
 夢想の淵から声に引き戻されて隣をみると、少女がこちらをねめつけて頬を膨らませていた。気になって仕方がないのだろう。そう思ってもらえる程度には、己も少女に関心を持ってもらっているのかと、彼は僅かに心温められる感情を見出す。
「お嬢様、どちらですか、お嬢様?」
 窓辺からゼルマの声が夜闇に響いた。所用から戻ったのに部屋の中に誰もいないとあって、開いた窓から外を探しているようだ。怒られぬうちに戻らねばと頭の片隅で思案し、ヘルツは立ち上がった。
「少々冷えて参りましたし、続きは室内でお話しませんか」
 立ち上がるのを助けるために差し出し、その目的を果たしたはずの手を、黒髪の幼い少女はヘルツの渡した上着の長い袖を捲り上げてまでしっかり握りしめて放さなかった。
「逃がしませんから。気になって眠れないので、ちゃんと話して下さいね」
 本当に彼女の強い好奇心には感心させられる。何事に対しても探究心が旺盛だからこそ、勉学にも励むことができるのだろうと、聡明な少女の本質をこんなところでも垣間見た気分だった。
「…承りました、 様」
 出てきた窓へ向かって、手を繋いで歩く。ぶかぶかの帝国軍制服の上着に身を包んだ少女にあわせるため、普段より三分の一の歩幅を心がけた。
 左手に感じる己よりも高い体温の、小さな掌がくすぐったかった。 
 星降る空の下で歩んだ距離にしてほんの数十歩、時間にして一分間に満たない僅かな触れあいを、ヘルツはそれ以降もずっと、人生の転換点となった日にも、些細な出来事として忘れることはなかった。
 窓辺までやってくると、少女はぱっと手を放した。心配顔のゼルマに向かって、笑って星を見ていたと話して、明かりの中へと進んでいく。
 ぼんやりと室内の光が届く場所に取り残されたヘルツは、背後の空へ頭だけ巡らせて、止まない星の雨を仰いだ。

 星の涙が落ちる場所は、ここにあるのだと、ふと思う。
 流れ星に面影を重ねる人の処へ、想いの名残は届くのだと。
 母の言葉を、このときヘルツはようやく理解した。
「大尉、話の続き続き!」
「はい、いま参ります」
 いつの日か夜空を貫く光となるだろう我が身の想いが届くよう祈りつつ、呼ばれて室内へと視線を戻したヘルツは、微笑んで歩み出す。
 そうして明るい光に迎えられた生者の知らぬところで、夜空に幾筋もの星は降り続けた。
 想い巡る星の涙が落ちた場所がどこであるのか、星降る道筋を見た者だけが知っている。


星降りの夜ほしくだりのよ     




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