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02


 まだ自分が随分と背丈も小さく心に純粋さを残していた頃、空から流れ落ちた幾つもの星をみて、あれは誰かの涙なのだと、その涙を拾いにいきたいと、そう思ったことがある。
 夜中にふっと目覚めた自分は、暗いベッドに寝転んだまま、すぐ側にある窓の外へと視線を向けた。
 我が家は貧しく、その窓には薄いレースのカーテンがほんの申し訳程度にかけられていただけだった。自分の寝室は二階だったし、男児ということで外から覗きこまれて困ることなどなく、それで何の不自由もなかった。とにかく内と外とを隔てるのはほぼ透明な窓硝子一枚きりという出窓からは、いつでも空がよく見えた。朝には目覚めると白みはじめた霞む色、夕方には茜色と藍色のグラデーション、夜には名も知らぬ星が点滅するといった具合に、季節や時間の移り変わりをその窓は切り取られた一枚の絵画のように見せてくれた。何年も暮らした古いだけが取り柄の一軒家で、その窓が自分にとっての特等席だった。宿題を終えて机から顔を上げたときや、夕飯を待つほんのひとときに、何かにつけ窓の外の空模様を見て、雲の形や空の色合いを楽しむのが自分にとっての習慣となっていた。
 だから、それは偶然だった。何かを見ようと思って見たのではない。ただ何となく、今は何時頃なのだろうか、まだ真っ暗だな、なんて考えて出窓の向こうを意識したのだった。
 そして幼い自分は、夜空を滑りゆく幾筋もの星の軌跡を見つけた。
「うわぁ!」
 思わずベッドから跳ね起きて、窓硝子にへばりつく。右に左に瞳をせわしなく動かし、あっちにも、こっちにも落ちる星を数えていった。そのような数え方では間に合わないくらい、次から次へと空を縦横無尽に星は駆け抜けていった。ひとつひとつの流れはほんの一瞬で消えてしまうのに、それが数限りなく集まると、まるで自律した意思を持って舞台公演を行っているように見えるから不思議である。
 もっとよく見ようと、どこに落ちるかと、自分は出窓を開いてその縁に腰かけた。夜風が冷たく、いったん戻って掛け布をベッドから剥がし、ぐるぐる自分の身体に巻きつけた。
「よし」
 準備万端とばかりに再度、窓から身を乗り出して腰をすえ、途切れることなく星降る空を見上げた。
 飽かずにどれくらいそうしていたのだろうか、なぜ星が落ちるのかと考え、そうして思ったのだった。
 このように降りしきる星は、誰かが流した涙に違いない。だからその涙を拾いに行こうと。
 いま思い返してみると、随分とロマンチックな物語的発想だったように感じられる。あれは単なる流星群でしかなく、暮らしていた惑星に最接近したために沢山の流れ星を一度に見ることにできただけだった。だがその頃は何か本を読んでそう思ったのだろうか、それとも子供向けの立体TV番組でそのような構成を使った物語があっただろうか、詳細は忘れてしまったが、とにかく黒い夜空に一筋の閃光を残す落ち星たちは、子供心に星の涙という印象を植え付けたのだ。
 まずはもっと高いところから、星の涙の確かな着地点を調べなければ。何か痕跡や残るものがあれば拾って、それを持って誰かに尋ねるか、本で調べるか、どうにかすれば誰の星かということもわかるだろう。そして思いつきに興奮した自分は、いざゆかんとばかりに自分の居場所も忘れて勢いよく立ちあがった。


 星の涙を拾いに行こうと思った少年がどうなったか。
 住んでいた小さな、本当に小さな一軒家の屋根で夜空に気を取られた自分は足を滑らせて転げ落ち、ちょっとした真夜中の騒動を引き起こした。何のことはない、出発の時点でつまずいて星の涙を探す旅に出ることは叶わず、叫び声を上げて落ちた庭先で意識を失ったのだった。闇を切り裂く声に飛び起きた両親は着のみ着のままベッドを飛び出し、家の中ではなく外で倒れ伏す我が子を見つけて、心臓が止まる思いを味わう羽目になったという。
 幸いあちこちの打撲とひどい尻のあざだけで済み、担ぎ込まれた病院で目覚めた自分をその頃はまだ生きていた母親が心配そうな、どこか怒ったような目で見つめていたのも良い思い出である。
 なぜ屋根なんかに上っていたと問われ、星の涙を探しに行こうと思ったと返せば、父親には拳骨をもらった。母親を心配させた罰だそうだ。
 母親はひとしきり泣き笑いを浮かべたあと、息子を馬鹿だと詰ったりはしなかった。
「マティアス、星の涙は誰の手にも入らないのよ。だってあれは……」



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