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お寿司戦線、援軍を乞う01


 帝国歴480年の秋、――・フォン・子爵夫人は13歳であり、まだ宇宙がラインハルトという英雄を知らぬ頃のことだった。
 秋から冬にかけて、帝都オーディンは狩猟や夜宴を伴う社交が盛んになる季節であった。
 ブラウンシュヴァイク侯爵令嬢エリザベートとの親交と、自らが発端となって始めた食べ物商売に絡んで社交的な招待を受けることも執務の一環となっているは、宴席へ足を運ぶ機会も増えていた。寿司をはじめとする和食レシピを提供し、見栄えよく改良したり、領星の特産物を宣伝広告することが、齢若くして位を賜った子爵夫人の主な仕事であった。
 爵位持ちではあるが成人前の未婚令嬢という立場のため、名目上の保護者としてブラウンシュヴァイク公爵夫人アマーリエの名を借りていることもあり、表立って・フォン・子爵夫人を揶揄する者は少なく、は安穏と社交場に出入りしていた。
 当初、アマーリエの庇護を受けることを、は未来への危機感から固辞しようとした。
 だが、元皇女が名目を与えることは大変な名誉であると貴族社会では認識されており、その素振りは『謙虚』と取られただけだった。
「わたくしが望んで貴女を連れ出すのですもの、これくらいのことは当然ですのよ」
 アマーリエ・フォン・ブラウンシュヴァイクは、銀河帝国の姫君であった。形式上は公爵夫人となったが彼女の意志は銀河帝国では必ず履行される『お約束』となっており、全銀河が模範とすべき淑女の微笑みをたたえる公爵夫人の圧力に、は内心で冷や汗をかきながら頷くしかなかった。
 そうした日々の中、は宴席で噂の人物をたびたび目撃していた。艦隊士官の彼の人は夜会におおよそ隔月で通っていると、どこからともなく耳に入る。先だっての『すれ違い』では、その左右の色彩が異なる金銀妖瞳と視線が交錯し、互いに気付いて人垣越しに目礼を交わしたである。
 眉目秀麗な青年士官を灯と称した一文が原作にあったが、まさにオスカー・フォン・ロイエンタールは常に衆目を集める男であった。
 高価な宝飾を着飾った貴族たちの居並ぶ席にあっても、怜悧に整った顔貌と、格式ばった軍服を優雅に着こなす立姿は否応なく目を惹く。それに加え、華々しい噂話も彼のお供であった。
(今日はダンネマン伯爵令嬢か。その前はガイテル子爵家の三女だったような)
 ブラウンシュヴァイク公爵令嬢エリザベートとの交友上、相応の貴族関係図を把握しているので、ロイエンタールの傍らを泳ぐ美しい魚たちに婚約者がいることをは勿論知っていた。
 貴族は特別なもの、美しいものが好きである。それが若い男性の形をしていたのなら、貴族令嬢はなおさらである。
 幻想の美男子が具現化したオスカー・フォン・ロイエンタールという男に懸想した令嬢は、求愛の末に彼と一夜と言わず熱い日々を過ごして有頂天になる。しばらくのちに金銀妖瞳の麗人のすべてを独占したいと令嬢が迫ると、あえなく関係は破局する。理想の恋人は次の宴で気付けば新たな女性と腕を絡め、優美な微笑みを浮かべているのだ。
 ブラウンシュヴァイク公爵家筋の夜会に出入りするような貴族令嬢はほぼ箱入り娘なので、本人の望まぬ限り異性交流など出来るわけがなく、彼の漁色遍歴に女性側の合意がないとはも思わない。
 しかし、ロイエンタールのそれは完全な火遊びであった。婚約者のいる貴族令嬢をお手付きにした挙句、即座に女を乗り換える男に、いつ誰が制裁を加えてもおかしくないという評判になるのも無理ないことであった。
(わかっていてやっているよなあ、ロイエンタール)
 士官学校を卒業して数年の若手士官として自由を謳歌するにしても、やり方があるのではなかろうか。
 帝国には貴族を相手にする高級娼婦の類も存在する。単純な欲の発露であればそちらに行けばいいものを、なぜロイエンタールは妙齢の貴族女性を獲物にするのかと思わぬでもないである。
(業が深い男だよね)
 ロイエンタールを囲む令嬢たちの輪に入る気にならなかったは、綺麗な花火のようなロイエンタールを遠巻きに眺めるに留め、機会があればお話ができると嬉しいな、と呑気に思っていた。

****

 ある晩秋の夕べ、はブラウンシュヴァイク公爵の縁戚にあたるマローネ伯爵の夜会に参列している。
 は宴に出入りする際の慣例として、主催者マローネ伯爵とその夫人へ挨拶の口上を述べていた。涙ぐましい和食営業活動の一環である。
「ブラウンシュヴァイク公爵夫人から伺って、本日は当家でも『寿司』を提供できることを有難く思っておりますわ、子爵夫人」
「お招きありがとうございます。皆さまに喜んでもらえれば嬉しいです」
「連夜の宴では趣向を凝らさねば飽きられてしまいますからね、当家ではレシピを拝見して香草を合わせてみましたの」
「それはとても楽しみです」
 銀河帝国における寿司は既にの知る寿司と大いに異なるが、寿司の付け合わせにどんな食材が使われていようが、美味しければ誰も文句はないであろう。
 伯爵夫人は評判が気になるらしく、寿司考案者である黒髪の子爵夫人を前菜が並ぶ一角へと誘う。
 差し出された皿には、希少な塩漬け魚卵と酸味のきいたムースと米が鮮やかな配置でまとめられたものと、香草入りの酢でマリネされた魚介がサフランライスと組み合わされた『寿司』が盛り付けられている。
「星の如く美しく飾られていますね。食材の合わせ方も素晴らしいし、とっても美味しいです」
 満面の笑みでは太鼓判を押した。
 オーディンで放蕩を尽くす有力貴族は口が肥えており、美食の水準も並ではない。この帝国風寿司はの味覚にも好ましいものであった。これは寿司なのか、という問いはしてはいけない。寿司ったら寿司なのである。
 上機嫌なマローネ伯爵夫人は、それからしばらく子爵夫人を連れて『寿司』を振舞って回り、は控えめに、けれども求められた時には営業的な説明を献上するという具合であった。
 前菜があらかた無くなり、主菜が運ばれる頃になるとはようやく夫人の付き添いから解放され、休憩用に開放されたテラスの長椅子に腰を下ろしていた。秋の宵口の屋外は涼しく、人混みでの生ぬるい熱気に疲れた身には心地よくもある。軽量化を試みてはいるものの、装飾過多の夜会用ドレスは着て歩くだけでも重労働なのである。
 絶え間ない作り笑顔に頬が疲れをおぼえ、誰も見ていないのをいいことに表情を消したは思わず呟いた。
「ひもじい…」
 最初の寿司以降、ほとんど食べられなかったの胃が空腹を主張している。
 通りすがりの給仕に軽い食事を頼んでおいたので、最後の我慢だとは庭を眺め待つことにした。
 庭園をほんのり照らす窓からの薄明りと、長椅子の周囲に置かれた小さなランプの中で?燭が揺れており、宴の盛りなので休憩用の回廊に他の人の姿はない。
 かと思いきや、庭園の暗がりにもつれ合う男女のシルエットが視界に入る。場所柄、人目を憚る関係を想像するも見ない振りが宴席での礼儀でもある。
 はこれも夜会の風景と割り切って、遠くの硝子戸から漏れ聞こえる遊興のさざめきと、葉擦れの音、そして時折交わされる男女の囁きをぼんやりと聞いていた。
「お待たせ致しました、お嬢様」
 気付けば、給仕の女性が傍に立っていた。
 彼女は大人の中に放りこまれた幼い子爵夫人を不憫に思ったのか、頼んだ以上に前菜や食後に饗されるはずの菓子などを山盛り運んできてくれた。てきぱきとテーブルを誂えると、酒精抜きの発泡ワインをフルートグラスに注ぎ、氷の張ったボトルクーラーに瓶を横たえ、ごゆっくり、と遠ざかっていく。
 どこから見ても、食いしん坊なテーブルセットと令嬢の出来上がりである。
「いただきます、と」
 給仕の気遣いに礼を言い、伯爵夫人のおもてなしをは張り切って頬張り、人知れず瞳を輝かせた。
 銀河帝国の美食万歳である。
 グラスを傾けると、海の幸に合わせたハーブ調の味わいで、マローネ伯爵夫人の心配りが感じられる一杯であった。
 刺身と酢飯と醤油という組み合わせは帝国文化圏では味も形もシンプルすぎるらしく、ブラウンシュヴァイク公爵家に紹介した後は、いつの間にか醤油をアクセントにした彩り調味料や、付け合わせの野菜などを添えて楽しむのが実際のところ流行の肝であった。料理の本体が素朴な分、バリエーションで楽しめるのが良いとの話である。
(美味しい刺身は塩だけでも充分なんだけどなあ)
 単純素朴に美味しいという価値観自体が銀河帝国にそぐわないのだろうかと故郷の伝統に思いを馳せつつ、伯爵夫人一押しの『寿司』に改めて舌鼓を打つ。
(うんまーい)
 寿司ったら寿司もよいものだ、とは嬉々として皿を平らげていく。
 そんなをよそに、庭園の片隅の男女劇は進行しているようであった。
 御令嬢らしき上品な罵倒、そしてとどめに平手打ちの音が宵闇に響く。
(睦合いじゃなくて、見事な修羅場ですね)
 他人事であるは特に感慨もなく、打つ方も打たれる方も痛そうな音だ、と眉をしかめる程度である。口に放り込んだ白身魚の刺身の正体が何かを考える方が、にとっては優先課題なのだった。
 二つ目の寿司を食べ、酸味は酢だけではなく柑橘、刺身は少し脂のあるあの魚と、あたりをつけたところで、庭先から現れた女性が足早にテラスを横切る。
 普段は可憐な風情のご令嬢もいまは憤怒の形相であり、のんびり寛ぐこちらを昏い瞳で一瞥すると、足音高く去っていった。
(あれは、ダンネマン伯爵令嬢? とすると、相手の男は……)
 幾ばくの猶予を置いて、悠然と、シルエットだけでも優雅な足取りで修羅場のもう一方の役者が歩いてきた。
 宴から漏れる薄明りに、艦隊士官の軍服が徐々に浮かび上がる。
 そして現れた金銀妖瞳に退屈そうな光を宿した黒髪の青年が、テラスの一角に陣取るこちらに気付き、おや、という表情をした。
 彼の左頬は遠目にもわかるほど赤みを帯びており、広間へ戻れば余人の詮索を免れることはなかろう、という風情である。
 音なく視線を交わした数瞬の後、彼は淡々と、滑らかな発音でこちらの名を呼んだ。
「おひとりか、フロイライン・
(うわあ)
 単なる呼びかけさえも、心臓を波立たせる威力である。
 にとってみれば、『かの有名な』オスカー・フォン・ロイエンタールから呼びかけられるという特異な状況に少々の動揺を覚えるのだった。
 士官学校生であった頃より、精悍さと鋭さが増し、顔貌の陰が深まっているようにも見て取れる。
 は平静を装って寿司をもぐもぐと飲み下し、手にしたグラスを傾けて唇を湿らせてから、ようやく言葉を発することができた。
「ええ、少し休憩していたところです。……お久しぶりです、ロイエンタール様」
 襟と袖の階級章が星なし三本線ということは、この時点での彼の階級は大尉であるとは観察する。
 同様に、端正な軍服姿の青年士官もこちらを眺めやっている。
 片手にグラス、テーブルには食い気満ち溢れる皿、そこにひとり座る一応は知己の黒髪の令嬢を見て取ったロイエンタールは、頬の赤い痕が消えるまでの手持ち無沙汰をテラスで潰すことにしたらしかった。
「隣にかけても?」
 断る理由はなく、相変わらずの好奇心が顔を出し、問われたは勿論、と頷いた。
 ロイエンタールはの居る長椅子の端、腕を伸ばしてもかろうじて届かない程度の、社交的に問題のない男女の距離を保ち座る。
 軍靴に包んだ長い脚を優美に組みながら、通路に控えた給仕にワインを頼んだロイエンタールは、皮肉なのか冗談なのか迷う言葉をかけてきた。
「庭の景色は、退屈潰しにはなりましたか」
 高みの見物を決め込んでいたのが、どうも丸見えであったようだ。
 よっ、漁色家!と内心で思っているものの、は子爵夫人としての相好を崩さず応じる。
「秋の風情もよいですが、私は食べることの方が好きなので、寿司を楽しんでおりました」
 対応に困る話題を回避し、自分の得意分野に巻き込むのが貴族の話法というものである。
 ダンネマン伯爵令嬢とロイエンタールの破局は、の立場には利害関係がない。にとってロイエンタールは『ロイエンタール』なので、会話の主題に女性関係を持ってくる愚は冒さないのである。
「寿司とは、近頃聞くようになった魚料理だったか」
 色彩の異なる双眸が、卓上の寿司へと注がれた。
 薄紅の鱒寿司に小さく刻んだ色とりどりの野菜をマリネにして添えたもの、その隣には薄造りの白身に柑橘のピールが飾られた、寿司ったら寿司などが並ぶ皿を、ロイエンタールが眺めやる。
「魚はお好きですか?」
 生魚を食す文化はマリネやカルパッチョ的な調理法で存在する銀河帝国であるが、人によって好みもあるだろう、とはまずは訊ねてみた。
「苦手ではないな」
「美食家で鳴らすマローネ伯爵夫人がお薦めしているので、ご興味がおありでしたら、どうぞ召し上がってみてください。そちらには手を付けてはおりませんが、よろしければ新しいものを頼みましょう」
 殊更、自分が頑張って普及させたのだという主張をするつもりはにはないが、一度は食べてみてほしいとも思う。
(名だたる未来の提督が寿司を食べてくれるなら本望ってものよ)
 折よく給仕が差し出した酒杯を受け取ったロイエンタールとともに、は手元のグラスを掲げ、乾杯の形式をとる。
「フロイライン・との再会を祝して」
 金銀妖瞳の青年の一言は社交上の愛想かもしれなかったが、その心遣いには微笑み、無難な一言を添えておく。
「互いの健康と活躍をお祈りして」
 未来の双璧の片割れは、幾分か冷ややかさを減らした表情で、繊細な泡粒が浮かぶ酒杯を傾けている。
 は気付いて静かに立ち上がり、傍らのボトルクーラーの氷水にハンカチを浸して絞ると、頬に修羅場の痕跡をつけたロイエンタールに差し出した。
「どうぞお使いください」
「これは、お気遣い痛み入る」
 平手打ちの痕を冷やすには物足りないが、何もないよりはましであろう。
 両者がともに共通認識を抱いたため、はハンカチを差し出し、ロイエンタールは異議なく空いた手で受け取り、左頬に押し当てた。
 再び着席したは、抱いた疑問を思い切って尋ねてみた。
「ロイエンタール様であれば、御令嬢の一撃は避けられたのではないでしょうか」
「凶器で刺される訳でもあるまいし、別れの挨拶としては相応しいのでは?」
「そういうものですか」
 男女の修羅場をくぐったことのないは首を傾げるしかないのだが、当事者であるロイエンタールが納得して頬を打たれたのであれば、差し出口をするものでもない。
 他の参列者に比べれば明らかに背丈も小さい子供、という風情に疑問が湧いたのであろう、ロイエンタールが問うてきた。
「フロイライン・の姿を幾度か夜会でお見掛けしたが、デビュタントの年頃だったか?」
「いいえ、私はまだ13歳なので本来であればこういった場には参加しませんが、実は先立って爵位を賜りまして、執務の一環として社交の場に出入りしているのです」
「となると、子爵夫人、大変失礼いたしました」
 令嬢は子供、爵位持ちとなれば貴族その人、という訳で扱いも異なる。ロイエンタールは居住まいを正し、表面的には非礼を詫びる仕草をする。
「お気遣い有難く存じます。でも、どうぞお気になさらず。私とロイエンタール様は、シミュレーションで戦った仲ではありませんか」
 茶目っ気を混ぜて笑いかけると、ロイエンタールは当時を思い出したかのように口の端を持ち上げる。ロイエンタールは、幼い少女の姿に見合わぬ大人びた口上と、夜会のテラスで乾杯をすることになった不可思議さに、愉快な心持ちになったようである。
「まだ、軍学を嗜んでいるのか?」
「はい、政治にも戦いがつきものである、という祖父の信念のもとに学んでおります。実のところ、祖父の趣味が半ばではないかと近頃は疑ってはいるのですが、何事も学んで損にはなりませんので」
 普通の御令嬢は学ぶ前に疑問を抱くのではなかろうか、とロイエンタールは思うのだが、貴族的基準から大幅に逸脱した家柄は相変わらずであるらしい。
 あの当時、大人びた賢い少女、という印象をロイエンタールは抱いたのだった。
「対戦相手がまさか女性、しかも幼い年頃の御令嬢であるとは、あの時は思いもよらなかったな」
「士官学校のシミュレーションの折には祖父ともどもお世話になりました。ロイエンタール様にはご迷惑なことであったでしょう」
 退役中将の祖父コンラッドはともかく、孫娘であるは部外者であり、ロイエンタールとすれば不本意なお付き合いであっただろう、という配慮からの言葉であった。
「不本意ではあったが、有意義ではあったので、さほどの迷惑でもなかろう」
「有意義でしたか?」
「己を含めて、戦術研究科の学生は艦隊運用の検討ばかりで白兵を敵旗艦へ突入させるなど考慮しなかった。実戦においてあの奇策が運用できる場面は限定されるだろうが、成功すれば指揮系統を動揺させられるのだから、そういう手段があると構えることは必要だ、と感じた」
 そこで言葉を切ったロイエンタールは、色彩の異なる瞳でこちらを見下ろしている。
「艦隊戦でも大将首を獲るのだという気概をフロイラインが持っているとは思わなかった、自らの不明を恥じたものだ」
 割と本気でそう思っていそうな未来の双璧その人に言われると、ヤン印の奇策を流用したとしては肩身が狭い気分である。
 敵大将を殺したかったのか、といわれれば仮想現実の中の勝負としか思っていないには、気概などあるはずもない。のゲーム気分とは違い、士官候補生――軍人であるロイエンタールらにとっては生死をめぐる戦闘想定の訓練であるということが、三年前のあのときには実感がなかった。
「命がけで戦う士官の方々のご覚悟に思い至らない、我が身が恥ずかしいです。それでも、有意義と仰っていただけて嬉しいです。宇宙戦では近接戦が起こりえない訳ではない……少なくとも、旗艦が最もリスクが高くなりましょう? 装甲擲弾兵を置くわけにはいかないかもしれませんが、ご自身の幕僚には近接格闘が得意な人を置くのもよいと思います」
 真顔で語る少女に、いかにも可笑しい、という風にロイエンタールは吐息を漏らす。
「幕僚とは大きく出たものだ。この身はいまだ大尉、艦隊指揮官や司令官への栄達に浴するとは限るまい」
 少なくとも、武功を立てられる場が与えられなければ、平時の軍人の昇進などたかが知れている。ロイエンタールは黒髪の少女の語る『自ら選んだ幕僚のいる自分の司令部』が、冗談のごとく思えたのだった。
 しかし、子爵夫人の号を持つ黒髪の少女は、ロイエンタールの自嘲交じりの返答に、不可思議なものを見たような複雑な表情である。
 過去、あの士官学校で見せた何かを見透かす、自分ではないものを見ているかのような黒い瞳に、ロイエンタールは再び問う。
「何か?」
「いえ……」
 艦隊司令官として大成するはずのロイエンタールは、いまのところ鬱屈とした思いを抱えている。貴方はいずれミッターマイヤーと出会い帝国軍の双璧を成すのだ、と応援するわけにもいかず、としては言葉を選んで躊躇ってしまうのだった。
 品行方正とは真逆の私的生活を繰り広げるロイエンタールが、いまだ人生の先行きや自身の出自を疎ましく思っているとして、単なる知り合いレベルの自分が何を言えるというのか。さらには、これから貴方は軍功を立てますよ、などと言えば戦争――この場合は、帝国の内戦も含む――が激化すると告げるに等しく、優秀な戦略家でもあるロイエンタールの疑念を惹起しかねない。
「ロイエンタール様は、ご自身が提督となられることはないとお考えなのですか?」
 は、すぐにNein――つまりそんなことはない、自らの出世を信じるとの返答があると思ったのだが、ロイエンタールの内心はの想像とは異なっていた。
 自身が提督となる為には、いかな実力主義が強い帝国軍とはいえ、貴族勢力のいずれかの派閥に属さねばならぬとロイエンタールは見立てていた。父祖らが金銭で爵位を得て、軍内に確たる誼もないロイエンタールの身分では将官の椅子はあまりに遠く、いわゆる権力の後ろ盾を得てその勢力の駒となり、立ち回ることが帝国軍内でも求められるのだった。
「くだらぬことだが、能力だけで階級が得られるものでもあるまい」
 ロイエンタールは味気ない事実を告げ、掌中のグラスの中身をぐいと飲み干す。
「少なくとも、戦功を上げる機会でもなくば、な」
 戦功の機会。それは、戦争を望むに等しい言葉である。
 倦んだ気配を纏う美貌の青年士官は、空にした杯と、その隣にぬるくなったハンカチを置いて麗しい動作で立ち上がった。
「子爵夫人のお気遣いで加減もよくなったので、これで失礼しましょう」
 何と返すべきか迷っていたをよそに、ロイエンタールは会話を切り上げる様子である。
 少なくとも、彼はこの後、――・フォン・子爵夫人の関与がなくとも僚友ミッターマイヤーと出会い、銀河帝国軍で名声を上げていくだろう。それを眺める立場で、自分としては充分ではなかろうか。
(寿司はまた今度、本式のものを食べてもらえるといいなあ)
 内心の野望果たせず残念に思うも別れの挨拶をしようと、腰を上げかけたところだった。
 テラスに繋がる扉から、数名の男女が足音荒く接近していた。
 ロイエンタールも騒々しさに、彼ら――彼女らを振り返り、そして何かを察したのか金銀妖瞳を細め、冷徹な雰囲気をその身に纏う。
 彼我の距離は2メートル、といったところで彼らは立ち止まった。
 その集団は三組の男女で構成され、うち一名は先ほど憤怒の顔で通り過ぎて行ったフロイライン・ダンネマンである。その他の令嬢たち、さらに軍服を着用した三人の青年士官――恐らくは貴族階級――も、非友好的な表情である。
 ダンネマン嬢の傍らで肩を怒らせた男性が、ロイエンタールに対し手袋を投げつけ、鼻息荒く宣言した。
「わが婚約者フロイライン・ダンネマンを誑かした貴官に、決闘を申し込む!」
 その声に次いで、さらに手袋が飛ぶ。
「婚約者を汚した、薄汚い男め、決闘だ!」
「貴様を殺して、我らの名誉を回復させる!」
 いきり立つ男達、その傍で苦い表情でロイエンタールを見つめる女性たち。
 修羅場の成れの果て。そう、かつて物語で読んだロイエンタールの降格の原因となった決闘の場面であった。
 挑まれたロイエンタールは男達を病院送りにし、結果的に軍紀を乱した咎を受けて大尉から中尉に降格させられ、その先の任地でウォルフガング・ミッターマイヤーと出会う、とはこの後の展開も知っている。
(とはいえ)
 ひょんなことから、すぐ傍で決闘申告を見ることになったは、椅子に座ったままロイエンタールを仰ぎ見る。
 合計三人の男達からの私的決闘の申し込みに、ロイエンタールは怜悧な顔にうっすらと微笑みさえ浮かべていた。
(明らかに面白がっている!)
「よかろう、受けて立つ。順番はどうするのだ? 三人同時でもよいが」
 怯懦など微塵もなく、麗しい黒髪の大尉は堂々と答えた。
 一人目がロイエンタールを『倒して』しまえば、後の二人は婚約者らの手前、立つ瀬がなくなるのだろう、少し待てと言い置いて彼らは相談を始めた。
 としては、過去に読んだ一場面が目前で展開されるという状況に、興奮はしても驚愕はないのだが、しかし次元の向こうの一読者ではなく、銀河帝国の子爵夫人となった今ならば意味が分かるというものだ。
 会話に割り込む無粋を自覚しつつも、はロイエンタールに確認せずにはいられなかった。
 長身のロイエンタール大尉の袖を引くと、金銀妖瞳の双眸が振り返った。
「あそこで怒っているのはダンネマン伯爵家とガイテル子爵家、それにアルベンヌ伯爵家の方とそれらに見合う家格の婚約者たちで、決闘に勝っても大変なことになりますよね?」
「であろうな」
「……つかぬことを伺いますが、ロイエンタール様はどなたか心強い後ろ盾がおありなのですか?」
「ないな」
(ひえっ)
 眉根を寄せて驚愕顔になってしまったである。
 貴族令嬢とその婚約者の私闘とはいえ、相手にも家格というものがある。
 仮にロイエンタールが決闘に勝ったとして、面子命の貴族が決闘に負けましたで終わる訳がなく、良くて万事手配済みの辺境送りの末に不幸な戦死を遂げるか、帝都オーディンで謎の頓死となるか、いずれにせよ決闘に勝っても後日、謀殺される可能性が非常に高いのである。その事態を避けるとなれば、有力な貴族に仲介を頼み、決闘で禊は済んだと事を落ち着ける必要があるだろう。
(え、これどうするの、三人に勝って一階級降格どころの騒ぎじゃないじゃん。誰が根回しを……まさか、私がするの!?)
 固まったに対し、ロイエンタールの声は変わらず素気ないものだった。
「子爵夫人には関係のないことだ、巻き込まれぬうちに立ち去る方がよかろう」
 確かに、は完全なる部外者である。ここで素知らぬ振りで立ち去っても、咎める者はいないだろう。
 逡巡する間に、婚約者を寝取られた三人組が決闘の手順を決めたようで、高らかに宣言する。
「順序は決まった!」
 銃や長剣を用意し、アルベンヌ伯が所有するオーディン郊外の馬場を決闘場所として指定するので三日後の正午に来い、必要であれば立会人を用意せよ、と彼らはロイエンタールに告げた。
「こちらの立会人は、決闘を申し込む各人が互いを立会人とする」
「よかろう。こちらの立会人はいない」
 ロイエンタールの言葉に昂り、瞳を不穏に光らせる男達の陰で、捨てられた令嬢たちが息を呑んだのがにはわかった。
(え、立会人がいないってまずいの……って、のこのこ決闘に出かけて待ち伏せした大勢に殺されかねないから当然か)
 これはロイエンタールにとって大変不利なことなのだ、と決闘の作法がわからないも想像ができた。
(いや、私が何かしなくてもたぶん大丈夫なんだろうけど。生き残る……よね? ああ、もうっ!)
 は躊躇ったものの、彼の窮地を見捨てることになるのも寝覚めが悪すぎる。
 覚悟は、一瞬であった。
「ちょっと待ったー!」
 単なる傍観者であったはずの方角から上がった声に、その場の誰もが振り返り、立ち上がり右手を掲げた黒髪の少女を凝視した。
 は、つとめて落ち着いた声音で状況へ割り入る。
「さすがに、ロイエンタール様に立会人がいないのはどうかと思います。決闘は、第三者が立ち会う公正なものでなくてはなりません。そちらの立会人はすべて利害関係者ではありませんか」
「たのむ相手がおらぬのは、その男の都合ですよ?」
 愛が憎しみに変わった鬼女もかくやというダンネマン伯爵令嬢の威圧に負けじと睨み返し、は宣言する。
「それでは、私がロイエンタール様の立会人になります、よろしいですよね」
「小娘がなにを」
 憤った伯爵令嬢の声を遮り、は名乗りを上げる。
「わたくし、これでも子爵位を賜っております。子爵夫人です、お見知りおきを」
 彼ら、彼女らにしてみれば、予定外過ぎる闖入者であろう、その名に動揺が見て取れた。顔は知らなくとも、ブラウンシュヴァイク公爵夫人とエリザベート様お気に入りの小娘の名は知っているようだ。
 金銀妖瞳の男に決闘を申し込んだ婚約者たちは顔を見合わせたものの、特に不都合はなかろう、と頷き返す。
「この世の別れを済ませておけ!」
 捨て台詞を吐いて、彼らは去っていく。
 そうして、三人同時に決闘を申し込まれた金銀妖瞳の青年士官と、ひょんなことから決闘騒動に首を突っ込んだ子爵夫人が、秋風吹くマローネ伯爵邸のテラスに残された。
 相変わらずの麗しくも冷静沈着な顔で、ロイエンタールが言う。
子爵夫人は、物好きだな」
 確かに考えなしに事態に首を突っ込んだのは自分である。
 だが、この男は助けなしに一体どうするつもりだったのかと、は言いたくもなるのだった。
「いやいやいや、普通に考えてこのままだと決闘に勝っても貴方は死にますよ? 当日か翌日か翌月かの違いだけですって。有利な立会人がいないなら、どうなってもおかしくないんですから」
 ふん、と冷笑ひとつで済まそうとするオスカー・フォン・ロイエンタールに、は額に指をあて、十三歳の青少年らしからぬ表情で唸るしかなかった。
(軍内に対しては祖父様と現役のミュッケンベルガー上級大将に縋って人事にお情けを頼んで、あとはブラウンシュヴァイク公爵家ルートから詫びとお金を入れて……)
 いらぬ世話を焼くことになったとしても、一応は全く成算がないわけではなかった。
 決闘で軍紀を破るのは婚約者たちも同じであるし、事実上1対3の喧嘩で負ければ彼らにとっての醜聞であるから、婚約者の男達には軍務省ルートで落ち着けてもらい、痛み分けでよいであろう。ロイエンタールに『捨てられた』女性たちには決闘での禊を主張し、あとは婚約者がいるのに遊んでいたと風評が立たないよう手配し少々の手切れ金で黙っていてもらおうと決心し、顔を上げると金銀妖瞳がこちらを眺めている。
「俺が死ぬと、子爵夫人に困りごとが?」
 他人事ではないか、と嘯く男にの眉間に皺が寄りっぱなしである。
 確かに現状の関係ではほぼ他人なのだが、はロイエンタールを『知っている』のだ。
「……ロイエンタール様は、決闘に負けるのですか?」
「いいや、勝つさ。奴らが、はしたない行いをしなければな」
 大言壮語に聞こえなくもない台詞であるが、ロイエンタールがさらっと吐くと当然の事実にも聞こえてくる。
「決闘に勝っても、その後に何らかの策謀で死んだら結局は負けたことになりませんか?」
「その時は、それまでのことだろう」
 この厭世家め、とロイエンタールの心持に、もどかしさを覚えるである。
(いや、死なないんだろうけど。誰かがどうにかするのかもしれないんだけど!)
「それでも、こんなくだらないことで死ぬのは、勿体ないです。もしかしたらロイエンタール様が、元帥杖を持つ未来だってあるかもしれません」
「は、は。なかなかに煽てるのが巧いな。それで、俺が生き延びて子爵夫人にどんな得がある?」
 青と黒の瞳が煌めいて、を見下ろしている。
 損得とは別次元で、はロイエンタールが自らの昏い炎で我が身を燃やそうとする様が受け入れがたいのだった。
「今は得になることが見当たらないので、未来でそのお得を返してもらえればいいと思います。言っておきますが、ロイエンタール様に異性としての恋情があったりはしませんので、勝って生き残ったらちゃんとその身でお返しをもらいますから」
「俺を子爵家の配下に、と望むか?」
 唇がへの字になってしまうである。
「……決闘が済んで、万事落着したときに考えましょう」


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