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  往復書簡08  


「何だか、思ったより簡単に済んじゃいましたね、ユリウス様?」
 繊細な透かし模様入りの白い日傘をぽんと開いたは、庭先へ続く階段へ一歩踏み出して振り返り、窓辺に立つユリウスへ微笑みかけていた。
 午後も三時を回り、真昼に比べれば陽射しはゆるい。爽やかな風が吹き抜けると程よい涼しさと緑の気配も感じられ、庭の散策には申し分ない天候であった。
 ユリウスは自分の取るべき行動が遅れたことに気付き、少し足早に階段を降りて黒髪の少女を追い越した。彼女が日傘を持たない右手を取ってエスコート役を務め、を導きながら階を進む。
「お父様とお母様が、こんなにあっさりユリウス様を解放するなんて、予想と大違いでした」
 最後の段を踏み、軽やかに大地に足を降ろしたの声は、その仕草と違ってどこか苦い。
 彼女の予想も、きっとユリウスのそれと相似していたのだろう。ユリウスが十三、四を越えた辺りから、娘を持つ貴族たちはこぞってユリウスの記憶に留まろうとし、愛想を欠かすことはなかった。政略結婚が家格にとって一大事である帝国貴族であれば、世渡りのひとつとしてヴィーゼ伯爵家の友好関係を求めるのは簡単な計算の結果である。
 しかしその大方の貴族が用いる社交術に比べ、二人に散策を勧めた子爵夫妻の対応は意外なほど淡泊だった。
 邪険にされた気はしなかった。歓迎の雰囲気はあり、応接間に笑顔が絶えることはなく、会話も滑らかに続いた。よく来た、疲れはないか、ゆっくりしていくように。よければの遊び相手になってくれ。夕食の際にはまた皆でゆっくり話そう。平凡な初対面の挨拶であり、特別な意図が垣間見えることもなかった。パランティアの英雄とよばれ、子爵家の要と報告書にあったの祖父、コンラッド・フォン・もほぼ同様であったが、彼からはユリウスを窺う気配があった。こちらを観察して値踏みをする視線であったが、ユリウスも慣れたもので萎縮することなく笑顔を返したものだ。孫娘の連れてきた「友人」の性根がどのようなものか確かめようとしたと考えれば、かの英雄の態度も不思議なことはない。
「貴女は、もっと僕に貴女のご家族と会話を交わして欲しかった?」
 ユリウスはの日傘をそっと取り上げ、腕を差し出してみせた。
 幼い令嬢はユリウスの手に傘が納まる一連の動作を目線で追い、目の前にある僅かに曲げられた肘を不思議そうにしばし眺め、やっと合点がいったのか小さな掌をそこへ載せることにしたようだった。
「それはもちろん、誰でも仲が悪いより良いにこしたことはないと思うんですけれど、そういうことではなくて……なんて申し上げればいいのか」
 二人は白い日傘が光を遮る範囲を外れぬよう、寄り添って緑の中を静かに進む。子爵家の庭園はよく手入れされ、小道は夏の花々に彩られていた。脇に咲いた薄紅色の花房に指先を伸ばしながら、は言う。
「私、あの方達のことがよく分からなくて。ユリウス様がいらっしゃる前にあんなに張り切っていたお母様やお父様が、あまりにも普通になさるから驚いたんです。内と外での振る舞いの違いというものなんでしょうか」
 家族と赤の他人、向ける表情が異なるのは普通である。だが、から聞いていた子爵夫妻の態度と、先程の現実はあまりに食い違っている。そして、内と外の違いと片付けてしまう以外にも、ユリウスには態度を変化させうる要因に心当たりがある。
(どちらを選んだのだろうか、あの夫妻は)
 胸の裡に忍び寄る闇に背を押され、ユリウスは相手をはかろうとする言葉を口に乗せていた。
「可愛い娘と、どこの馬の骨とも知れぬ男と、見せる顔が違うのは普通ですよ、嬢」
「ユリウス様は私の友人で、どこぞの馬の骨なんかじゃありません。私が異性の友人を連れてきたから、嫉妬している…なんて、まさかそんなことありませんよね」
 首を傾げ考え事に気を取られているは、ユリウスの示唆した意味には気付かなかったのだろうか。それとも、本当に知らないのだろうか。いや、時間は充分にある。慎重に探ればよいだろう。
 黒髪の少女は困惑を含んでいるだろう溜息をつき、顔を屋敷の方へ向け呟く。
「本当は、あんなに興味津々なのに」
 ユリウスが傘を傾けての視線の先を辿ると、窓際に揃って立ちこちらを眺める子爵夫妻を見つけた。ユリウスは笑顔を送り、は父母にささやかに手を振ってみせる。
 正面に向き直り、ユリウスは日傘で後背を再び遮った。日除け以外にも、日傘には用途があるものだ。好奇の視線はもちろん、監視の目からも逃れることができる。少なくとも、この小さな傘の下には自分と幼い令嬢以外いないのだと、思い込むことができる。
「まあ、考えていても始まらないですから気にしないことにして、さ、私たちは好きなように遊びましょう! せっかく久しぶりにお会いしたんですし、沢山お話したいことがあるんです。あ、もちろんお伺いしたいことも!」
「…僕もですよ」
 なぜ子爵家の令嬢と共に過ごして自ら厄介事を招こうとするのかと、問いかける声がユリウスの内側を掻き乱した。
 彼はもうずっと前から、分かっているのだった。何も求めるな。きっと、得られはしない。足掻いても空虚な闇しか掴めはしないのだ。
(ただ望まれるままに振る舞え)
「とりあえず作戦会議ということで、少し座ってお話しましょう」
 ユリウスは普段通り柔和に見えるような顔を作り、頷いた。
「ユリウス様と知り合って何ヶ月でしたっけ。私、まだまだユリウス様のこと知らないから、教えて下さい。どんなことが好きなのか、どんな食べ物が好きなのか、訊こうと思ってたんです。それに、フェザーンで一番楽しかったことは何かっていうこともお訊ねしたいな。私もフェザーンへ行ってみたいんです」
 は楽しさで一杯といった風に弾んだ歩調で、ユリウスを木陰の長椅子へと導く。
 艶やかな黒髪と花のように幾重にも布地の重なるドレスが風に翻り、青い空はどこまでも高く、夏の太陽は遥か彼方まで大地を照らしている。
「こっちです、私のお気に入りの場所!」
 ユリウスの腕から飛び立った少女が、光の下で踊るようにくるりと回ってこちらを一瞥し、そしてまた羽ばたくように彼の前を歩いて行く。
 瞳を灼く光の眩しさに、ユリウスは目を細めた。
 庭園の中央にある噴水の涼やかな水の音、どこか遠くから響く弦楽器の調べ、溢れる花の芳香に行き過ぎる鳥の鳴き声。呑み込んだ空気は甘く、閉ざした目を開けば微笑むが彼を手招いていた。
「ユリウス様ー」
 彼を呼ぶ、可愛らしい声にもユリウスは足を進めることができず、日傘の落とす陰の中にひとり立ち尽くした。
 すべてが優しく彼を包み込んでいる。ここにある世界は、ユリウスを陶酔させるようによくできている。
(けれど、すべて偽物だ)
 ユリウスは己に刻み込むよう、忘れてはいけない言葉を繰り返す。
 いつからだろう、ユリウスには世界すべてが作り物めいて見えた。
 自分を取り巻く日常が、まるで下手な芝居のようだった。とはいえ前提から破綻していた舞台が、うまく回るわけがないのだ。ユリウスが自らの果たすべき真の役割に気付くのに、それほど時を要さなかった。
 彼の中に今では笑ってしまう愚かな希望があった頃、ユリウスは一生懸命に家族というものを求めた。他の誰よりも優秀に、伯爵家の長男として立派に振る舞えば何もかもが、いつかは上手くいくと信じていた。求められるものは、与えられるのだと。さすが我が息子よと、頭を撫でられたいと思った。貴方は優しい兄になるだろうと、柔らかく抱きしめてもらいたかった。なにものからも私が守ろうと、夢の中であっても告げてほしかった。物語にあるように、誰よりも信頼できる友ができればと思った。
 願ってやまない、光景があったのだ。満たされるために、この胸には空白があるのだと信じたかった。
 だが幼い自分が家庭教師に褒められたと父に誇らしく告げ、邪険に追い払われたことが何度あっただろう。一度も微笑みかけてくれない継母に、どれほど勇気を出して話し掛けただろう。慈愛に満ちた姿で時間を止めた母の姿に、明日は上手く笑えるようにと何度祈っただろう。それだけではない。慇懃に頭を下げる社交場の紳士淑女が、彼の出自を嘲笑うのを耳にした。屋敷の侍女や執事の眼差しに、憐憫の色を見つけた。同年代の貴族の少年少女の言葉の端々に、おもねろうとする打算があることも知った。
 振り向かぬ背中、汚れたものを見るかのような目、触れられない映像、表裏のある仮面と、本音を隠した偽物の気持ち。
 ある日、ユリウスは気付いたのだ。
 求めてはならない。けれど自分は求められるままに振る舞えば、すべてが表面上は上手くいくのだと。
 きっと、他人も同じように生きているのだ。求めることを諦めて、ただ粛々と役割を果たすためだけに生き、無駄なことは切り捨てていく。
 それからのユリウスは、手際よくヴィーゼ伯爵家嫡男としての日々を回している。ただひとつ彼の褒められぬ最近の行状があるとすれば、・フォン・にまつわることだけだった。
「ユリウス様?」
 いつの間にか、の顔はすぐ傍にあった。
 気遣うように揺れる黒い瞳を見つめ返し、ユリウスは口の端を持ち上げて、いつも通りの表情を取り戻す。
「何でもありませんよ、嬢」
「本当に? 先程も顔色が良くありませんでしたし、私、久しぶりにお会いできることにはしゃいでばかりで、ユリウス様へのお気遣いができていなかったと思うんです、ごめんなさい」
「いいえ、貴女が悪いわけではないんですよ。ただ少し……そこの白い花が綺麗だったから見惚れていたのです。嬢にきっとよくお似合いだと思って。よろしければ、後で一輪頂いても? 部屋に飾ればきっと貴女が身近に感じられる気がしますよ」
 ユリウスは手近にあった名も知らぬ花に罪を着せ、それでも心配する素振りを見せる少女の背を穏やかに押し、気にするなと促した。
 黒髪の少女はつかのま逡巡するようユリウスから目を離すことはなく、何度か口を開きかけたが、そのたびユリウスが先んじて言葉を挟んで何も言わせなかった。
(きっと、すべては。僕も、君も)
 ユリウスは、諦めることに、そして演じることにも慣れていた。


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