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03


 夜闇に沈む街路を、ロイエンタールはミッターマイヤーと共にぽつぽつと短い言葉を交わしながら進む。
 2ブロック先に停めた地上車までの道程を、そこまで送ると友が言い張った故に。
「奥方を一人にすることはない。俺はいい歳をした男だ。そこに停めた車まで、一人で辿り着けぬことがあると思うのか?」
「卿を心配している訳ではない。俺も腹ごなしに少し歩きたくなっただけだ。そう、2ブロックを往復する位がちょうどいい」
 方便であることなど分からぬはずもないのに、ロイエンタールはこの男の物言いに心地よさを覚えて、それ以上の反論をすることはなかった。
「ロイエンタール、卿のおかげでエヴァに喜んでもらえた。なんと礼を言ったらいいか……とにかく、感謝している」
 大した労苦もなく手に入れたので、ロイエンタールは口数少なく友の言葉を受け入れた。
「たまたま伝手があっただけだ。気にするな。また酒に付き合ってくれればいい」
「その程度で良ければ、いつだって付き合う。なあ、ところでロイエンタール、卿は…」
 常になく歯切れ悪く口調を途切れさせたミッターマイヤーに、大体の言わんとすることを察する。
 ミッターマイヤーは馬鹿ではない。実直で一本気ではあるが、仮にも20代半ばにして将帥に手の届かんとする位置にいるのだし、何より己と肩を並べるに足ると見込んだ男だった。
 それに、既に5年以上の付き合いがある。ロイエンタールのエヴァンゼリンという女性に対する態度が、余所余所しいというもの以上の意味を孕んでいることに気付かないほど、気心が知れていない訳でもない。
「もしかして、エヴァに何か…」
「俺はな、ミッターマイヤー」
 続きを遮るように声を発して唐突に立ち止まった僚友を、ミッターマイヤーは二歩ほど進んだ場で振り返った。
 街灯の薄明に青の片眼だけが鋭く煌めき、そしてもう一方にわだかまる底知れぬ闇色に、ミッターマイヤーは息を呑んだ。
(女という生物は、男を裏切るために生を享けた)
 その真理は、母の憎悪の眼差しと共にロイエンタールの身の内に深く刻まれている。
 なぜそのような生物を、お前は信用できる。
 果物を切り分けるそのナイフを、こちらに向けぬと、なぜ言える。
 愚かな女。そしてそのような女を求める、愚かな男。俺の母や、父のような。
 喉元まで、出掛かった言葉がある。
 けれども己の過去を、そして澱みを、ロイエンタールは今なお戦場で頼みとする男にさえも、告げることができなかった。
(誰よりも愚かなのは、俺に違いない)
 くつりと嘲笑を飲み下して、ロイエンタールは口の端を歪めた。出来るだけ、馬鹿にしているような顔つきを敢えて作り、再び歩き出してミッターマイヤーを追い越した。
 数歩を駆けて横に並んだ新婚の僚友へ、本心とは離れた場所にある上っ面のきれいな台詞を渡した。
「……特別、卿の奥方に思うところがあるわけではない。お前のような男と結婚して、奥方も幸せだろう」
 似合いの夫婦だ。己とは違う理に生きていると、まざまざと見せつけられる。
 問いたかったことと違う答えを与えられたミッターマイヤーは、しかしそれ以上、ロイエンタールを問い質したりはしなかった。
 目の前の男の裡側へと続く隘路に踏み込めぬ自分を歯痒く思いながらも、その男が距離を弁えぬ付き合いを好まぬと悟っていたからだった。
 だからミッターマイヤーは、ロイエンタールの発した信号を読み間違えることはなかった。
「ああ、幸せにしてみせると誓った。エヴァは良い女だ。卿にも早くそのような相手が見つかるといいな」
 応とも否とも言わず、ロイエンタールはそのまま地上車まで他愛ない会話を重ね、ミッターマイヤーと別れた。


 それから一ヶ月後、出征した最前線のカプチェランカでの死線を越え、ロイエンタールは己の闇の一端をミッターマイヤーへ明かした。
 酒のせいか、戦の後の安堵と疲労のせいかはわからない。だが緻密に計算の上に成立していたはずの会話は、いつの間にか愚かだった母と父の話へ、そして己の心へと至っていた。
 だがロイエンタールは、恐らく一月前からずっと頭の片隅に引っかかっていた自分自身の愚かさをぶちまけてしまいたいと、どこかで望む己を知っていた。無駄に高い矜持が、素面で打ち明けることを拒み、酒や疲労に責任を負わせたに過ぎないのだろう。
 翌日、ややふらつく頭を抱えてミッターマイヤーと対面したとき、ロイエンタールはつまらぬ話をした、と己を嫌悪しつつ、朝食のトレイを僚友の隣席に置いた。
 ミッターマイヤーはサラダのトマトを突き刺しながら、素知らぬ顔をして笑った。
「何のことだ? 卿は昨夜は酔ってそのまま寝てしまったんだ。ああ、寝言を言っていた。『栗きんとん』がまた食べたいと言っていたぞ。そんなに食べたかったなら、あのとき一箱持って帰れば良かったのだ。半年先まではお預けだぞ」
 それがミッターマイヤーの創作なのか、それとも事実なのか、過去を開陳したところまでは覚えてはいても、眠った後のことは知ることのできないロイエンタールには分からなかった。しかし、友の気遣いが介在しているのが間違いないことは、愚かな己にも理解できる。
「そうか、『栗きんとん』が食べたいと、そう言っていたか」
「ああ、言っていた」
 美味しいとは到底言えないスクランブルエッグに、ミッターマイヤーは塩をかけている。
 その視線が先程からあまりこちらを向かないことに、ロイエンタールは愉快な気持ちになる。
(嘘の下手な男だ)
「では今からオーディンへ超高速通信を飛ばして、『栗きんとん』の予約をしてこよう。三箱のうち二箱は、卿にくれてやる。奥方と食えばいい」
「エヴァは、前に卿から『栗きんとん』をもらった翌日に予約を入れていたぞ。順番から言えば、俺が手に入れる方が早い。俺が分けてやる」
 塩を手渡され、この時ようやくミッターマイヤーと目が合った。
 真剣さと、真摯さが宿る灰色の瞳。
「ロイエンタール、俺はいつも卿を頼みにしている。昨日も命を助けて貰った。だから卿も俺に、いつでも何でも頼めばいい。卿のためならばどのようなことも尽力するぞ。命だってかけてやる」
 唐突すぎる宣言は、酒に呑まれて語った幾つかの過去の話に繋がっているのだろう。
 まったくもって、洗練の欠片もない気遣いではあった。あからさますぎる、そうロイエンタールは思った。
「とりあえずは、『栗きんとん』は頼まれてやる」
 その時、息巻いたように言うミッターマイヤーを見つつ、ロイエンタールは得難い生の道標を確かに手にしたのだった。
 親に疎まれ、刹那に刹那を重ねて生きてきた。
 生の実感は、ただ戦いの中にのみ見つけられるのだと、そう思っていた。
 だがこのように友がいれば、戦場でなくとも生きることに飽かずに済む。
「ならば、頼もう」
 ロイエンタールはこの日からのち、人間に対する興味というものを以前よりは少しばかり周囲に対して抱くようになった。


 そして彼は、再び、出会う。




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