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01


「なあ、ロイエンタール、卿に頼みたいことがある」
 ロイエンタールは琥珀色の液体が湛えられたロックグラスを降ろして、自身よりいくぶん小柄な僚友を色彩の異なる瞳で、まじまじと見やった。
 この平民出身の友、ウォルフガング・ミッターマイヤーと出会ってから、早5年が経とうとしている。その間、彼らは数々の共同作戦を成功させ、初対面の当時は中尉であったというのに、二人は年に一度の割合で昇進を重ね、既に大佐の地位にあった。
 戦場で互いに背を預け合うことを厭わぬほどには信頼を育み、こうして気安く酒を酌み交わす関係となっている、そのミッターマイヤーが真面目な顔で言う頼みとは、どんな類のものであろうかとロイエンタールは思案する。
 彼の脳裏に浮かんだ選択肢は二つだった。金か、女だろうか?
 ロイエンタールは、後者の選択肢をすぐに抹消した。
 精悍で女にも人気のあった蜂蜜色の髪を持つ大佐殿は、つい先日、7年越しの恋を叶えてエヴァンゼリンという名の花嫁とともに結婚宣誓書にサインしたばかりだったからである。一人の女性を心底から愛するという姿勢を、ロイエンタールはここ一ヶ月、辟易するほどこの男に見せつけられていた。ロイエンタール自身は道徳の教師が説教する一対の男女の真実の愛というものを、とんと悟ることができそうにない男女関係の道を辿ってきているので、ミッターマイヤーの結婚に関しては物好きだな、と心の中で呟くに留まっている。もちろん、表面上は祝福の言葉を伝えてはいたが。
 金の無心という想像も、あまり現実的ではなさそうだと彼は思う。
 二人は20代半ばにして既に大佐の地位にあり、その給金は決して安くない。豪奢な趣味を好み、毎日金をばらまくよう遊び歩いているならともかく、ミッターマイヤーは何もそのように質素にしなくとも、とロイエンタールが思うほど、つましい暮らしを夫人と二人で営んでいる。
 頼みの内容に全く心当たりがなかったロイエンタールは、もっとも手っ取り早い合理的行動を選択した。
「どんな頼みだ」
 普段と変わらぬ表情の乏しい声音で冷静に問われたミッターマイヤーは、真摯な顔つきを崩さず語り始めた。
「とある物を手に入れて欲しいんだ」
 ロイエンタールは美の女神が繊細に描いたであろう眉の角度を、僅かばかり変化させた。
 意外なことである。しかし物欲の希薄なこの男が頼むというのだから、恐らく彼が溺愛する夫人への捧げ物だろうとロイエンタールは予想し、それは外れていなかった。
「実はエヴァが欲しいと言っていたのだが、人気があって、おいそれと手に入らないらしいのだ…俺の力では無理だった」
 両手で包み込んだグラスを見つめながら、気落ちした様子を見せるミッターマイヤーを横目に、ロイエンタールは口元に寄せたグラスの中身の香りを楽しんだ。
 ミッターマイヤー自身では手に入れられぬというのだから、貴族でなければ手が出せない品なのだろうか。煌びやかな宝石、特別誂えの服、そういった類の物は、確かにフォンの称号を持つ者たちしか入れぬ店に置いてあることが多い。
「ほう、それで手に入れたいと頼むそれは、何なのだ」
 人気があるということだから、近ごろ知られるようになったテーラー『フェルノスト』のドレス辺りかと考え、ロイエンタールはグラスを傾け酒を味わう。
 ミッターマイヤーはカウンターで肩を並べるロイエンタールへ上半身ごと向き直り、重々しく述べた。
「…『栗きんとん』という菓子だ」
 思わず揺らしたグラスの中で、氷が甲高い悲鳴を上げる。
 含んだ酒を落ち着いて飲み下した後、ロイエンタールは念を押すように確認した。
「菓子か?」
「ああ、菓子だ」
 これほど優れた軍人は他にはいないとロイエンタールが認めた男は、大きく頷いて肯定する。
 しばしの沈黙の後、ロイエンタールが鼻で笑うどころか、口元を緩めて肩を揺らさずにはいられなかったのも、無理はないというものだろう。
 ミッターマイヤーは、そのような僚友に憮然とした表情を向けた。
「そこまで笑わずとも良かろう。俺は真剣に、卿に頼んでいるのだぞ」
「ああ、そうだな、卿は真剣だろうな。そうか、帝国軍大佐殿の頭を悩ませる種は、菓子か」
 予想は裏切られたが、ある意味ミッターマイヤーらしいと言えなくもない頼み事である。
「菓子は菓子でも、予約して半年は待たねば食べられぬ菓子だぞ」
「なんだ、それならば予約して待てば良かろう」
 そこまで卿の妻は気が短いわけではなかろう、そう問えば、ミッターマイヤーは眉根を寄せて憤然と言い切った。
「来月には、俺たちはまた新しい任地へ飛ばされるだろう! 望みを叶えて喜ばせてやる機会が、またあるとなぜ言い切れる? 俺は…」
 これまで二人は、確かに幾多の戦歴を重ねてきた。そのどれもが、楽観的に生還を予想できるものであったとは言えない。ヴァルハラへの道筋は、いつでも彼らの傍らに用意されていたし、戦場とは天上への入り口が、落とし穴のように幾つも開いている場である。
 だからこそ、今すぐにでもその菓子を手に入れて妻に差し出し、笑顔を頂戴したいというのだろう。
 激高した己を恥じるように俯いたミッターマイヤーの傍らにありながら、ロイエンタールの中では愉快な気持ちが急速に冷却されていった。
 先程までの微笑ましさなど嘘のように霧散し、冷徹な皮肉屋が面を覗かせた。
(そのように女が大事か)
 結婚をし、家庭を持つことは、ロイエンタールにとっては自らを重苦しい鎖で縛り付け、枷を嵌められることのように思われる。ミッターマイヤーが他愛のない妻の願いを叶えようと真摯に頼み事をするほど、『エヴァ』を大切に想っているであろうことは、重々承知している。
 けれどもまるで戦場に赴くことを忌避するような言葉が、ロイエンタールには受け入れることができなかった。
 このようなとき、彼はミッターマイヤーとの間に埋められぬ価値観の溝が横たわっていることを認識せずにはいられなかった。
 戦場で背を預けるに足る男で、幾度も共に戦果を挙げてきたというのに、二人は全く異なる心持ちで戦っているのだ。軍人は戦う意味を考えてならない、とはよく聞かれる言葉だ。ある種の思考停止がなければ、人を殺してはいけないからだ。
 ただ自分自身の生への欲求、相手を蹂躙しようとする闘争心のみがそこにある。
 だからこそ、生きる実感を得られるはずだとロイエンタールは思う。
 けれどもミッターマイヤーは、そうではない。
 生への欲求は、いつも『エヴァ』という女に繋がっている。
 闘争心は、死から逃れるための戦いであるが故のものなのだろう。
(人を臆病にさせる女など…)
 仮にミッターマイヤーが金銀妖瞳の友の心を覗き見ることができたなら、猛然と反論したはずだった。
 生涯の伴侶を得て、その相手を得難く思うからこそ離れることを厭い、永遠の離別である死を恐れる。だが、同時にその相手の元へ戻るためならば、どのような困難にも打ち克つ心も持つことができるだろう、と。
 ロイエンタールは己の胸に秘めた過去を、いまだミッターマイヤーに話したことがなかった。
 ゆえに、ミッターマイヤーはなぜロイエンタールが急激に冷徹な素面に戻ったのかが理解できなかったのだろう、応えがないことに己の頼みが機嫌を悪くさせたのだとでも思ったのか、沈黙を取りなすように明るく言った。
「すまない、栓のないことを頼んだ。気にしないでくれ。他の伝手を当たってみることにする」
「いや、卿の頼みならば俺がその『栗きんとん』という菓子を手に入れてやらんこともない。あてならば、ある」
 ちょうど現在付き合っている相手が、折良く近日中に『栗きんとん』がどうのと言っていたのを、ロイエンタールは記憶の淵で発見していた。
 その女は己をいたく気に入っている様子なので、頼めば分けてはくれるだろう。礼には毛皮の一つでもくれてやればよい。
 ロイエンタールはミッターマイヤーの頼みを引き受け、グラスの中身を全て飲み干して男同士のささやかな酒席をお開きにした。


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