epilogue





 久しぶりに得た長い休暇を、彼は前々からオーディンで過ごすことに決めていた。
 王朝の最初の主を失い、残されたアレクサンデル大公とヒルデガルド皇妃の摂政によって始まった二代目の御代の中、それまで最年少ながら上級大将の筆頭を冠していた砂色の瞳の青年は他の将帥とともに元帥へと位階を進め、獅子の泉の七元帥の一座を占める者として政務と軍務に励んでいた。
 前皇帝の存命中、勅命により銀河帝国軍の中枢機能である大本営はフェザーンへ遷されていたため、彼は生活の大部分を数年前から彼の地で過ごしている。とはいえ任務上オーディン来訪の回数は少なくなかったし、何くれと理由をつけては長く住んだ星に通っていたため、宇宙港から市内へ向かう地上車の窓から眺めた街並みに、ミュラーは懐かしいという思いはあまり抱かなかった。

 だが、幾つかの用事を済ませてその場所で地上車を降り立ったとき、彼は確かに過ぎ去った時を思わずにはいられなかった。
 空はあの日と違って雲一つなく青が見渡せるほど快晴で、季節も若葉芽吹く時を迎えて並木の緑も目に鮮やかだ。幾つもの人々が生きて死んだ証の間をすり抜けて向かった先、風雨に晒され真新しいとは言えなくなった墓標の前に、ミュラーは携えた弔い花を捧げた。
「ずいぶん多くの者が、貴方と同じ場所へゆかれたものです…ヴァルハラは賑やかになったでしょうか」
 寂しさを拭えない声だと、彼は自身で思った。
 あの日、もう五年以上は前のことになろうか、ミュラーが初めて一人でここを訪れたとき、いまだ皇帝の座を得ていなかった金髪の若者の麾下の中でヴァルハラへ赴いたのは眼前の墓標の主以外にはいなかった。
 だが彼がこの場を訪れた後の出征でケンプがイゼルローンに散り、その後も短期間に魔術師ヤンによって多くの将帥がヴァルハラへの旅路へと背を押された。そのヤンも彼自身の雪辱が果たせぬまま暗殺者の凶弾に世を去り、帝国の双璧と称された金銀妖瞳の元帥も、殺しても死なないと陰口された冷酷無比の軍務尚書も、そして彼が旗を仰いだ獅子の主もまた、同じ場所へと逝ってしまった。

 グローリアとラインハルトの間に交わされた、彼女の父上の話を、ジークフリード・キルヒアイスの話を沢山しようという約束は結局果されることはなかった。
 ラインハルトが亡き友の恋人であった ・フォン・ 子爵とその幼子との邂逅を果たした直後、ハイネセンを始めとした各地で幾多もの騒乱が起こり、新帝国の重鎮であったオスカー・フォン・ロイエンタールの叛乱と鎮圧に至る三ヶ月の間、皇帝たるラインハルトはそれらの対処に忙殺されていた。
 その混乱のさなか、新たな年を迎えようとしたある日、ラインハルトは己にも光が巡ってきたことを知った。
  一夜を共にしたヒルデガルド・フォン・マリーンドルフが懐妊し、明けた新年にはすぐにも結婚式を挙げる手筈となっていた。ラインハルトはその晴れの場に、友の残した者たちを呼ぶことを考え、妃となる女性に赤毛の友人の遺児の存在を伝えた。
 最初、思いもよらぬ驚きに言葉を失ったヒルダだったが、数瞬のうちに平常心を取り戻して優秀な政治的感覚を稼働させた彼女は、断固たる口調で夫となる人物へ告げた。
「陛下、それはおやめになった方がよろしいかと存じます」
 のちにローエングラム王朝初代皇妃となった女性は、高度な政治的配慮によって、秘められた恋の顛末を公にすることに難色を示した。
 既にローエングラム朝において大公位を下賜されていたジークフリード・キルヒアイスの遺児となれば第一皇位継承権がその女児に生じてしまう恐れがあり、既に生命としては存在していてもいまだ肉体を得ぬヒルデガルドとラインハルトの子との間で、皇位をめぐる闘争が起こるともしれなかった。
 銀河に新たな王朝が成立して二年という萌芽期に、分裂の種を己から蒔くことはないというのがヒルダの意見だった。至尊の冠を頂いた青年も、感情によらぬ見地からは皇妃の意見が正しいと認め、己の思いつきを撤回せざるを得なかった。
 ローエングラム王朝初代皇帝の結婚式には、 とグローリアはごく個人的なメッセージをラインハルト宛てに送り祝福の意を伝えるに留まった。だがそのメッセージを読む間もなく結婚式当日に発生したイゼルローン騒乱は、そのまま銀河帝国全土へと飛び火し、地球教徒たちの相次ぐテロと、イゼルローン革命軍との全面会戦をもたらした。
 そしてその日々の中で身体の不調を訴えたラインハルトは短期間に急激に容態を悪化させ、キルヒアイスの幼子との約束の日から一年を待たず、ヴァルハラへ旅立ったのだった。
 
 刹那の火花のような命を燃やして世を照らした光たちを、彼は少しだけ羨んだ。
 そう考えてはならないと知りつつ、幾度となく前皇帝の危機を救った『鉄壁ミュラー』と称された彼は思わずにはいられない。多くの僚友たちと肩を並べ、銀河を大艦隊とともに駆けた日々が己の胸を熱くさせ、出来ることならば再びその勇者の列に加わりたいという想い。突き詰めれば平穏ではなく戦乱を望むに等しい願い。消えぬ取り残されたような寂寥感。
 これを感傷というのだろうと、ミュラーは思う。
 彼の毎日は忙しく、充実している。実際の彼は謀反や叛逆など全く企図しておらず、ただ新たな王朝のために粉骨砕身で執務に励んでいる。
 ただ、綺羅星の如き戦友たちの後ろ姿が、眩しく美しいもののように感じられてしまうだけなのだ。
「私はまだまだそちらへ参ることはできません。今はまだ、すべきことが多い。やりたいことも尽きていない」
 自らに言い聞かせるように、砂色の瞳を伏せて彼は呟いた。
「お許し下さい、キルヒアイス提督」
 謝罪の意味と、許しを請う意味。
 彼は踵を返して応えのない墓標を後にする。
 生者の手はヴァルハラへと届かず、死者の声は生きる者の世界には届かない。
 時の流れの中で過去を懐かしむのはほんの一瞬。人の営みは途切れることなく続く。
 だからそれはミュラーの一方的な挨拶だった。
 佇む者のいなくなった簡潔な銘の入った墓標の前に、ただ円く愛らしい花だけが風に揺れていた。





 ミュラーは約束の時間を気にして行路を急いだ。
 いくつものプレゼントを抱えて門扉の前に立った頃、すでに陽は暮れかかって空は赤く染まり、家の窓からは温かな明りが洩れていた。
 その呼び鈴を鳴らそうとしたところ、肩を叩かれた彼は頭を巡らして既に見慣れた顔を見つけた。
「元帥、お持ちしますよ」
「メルケ大尉」
「もう大尉じゃないのですが…ほら、端の箱が落ちそうになっていますよ」
 ミュラーは礼を言って手伝ってもらうことにした。あまりの大荷物に、メルケは笑いを堪えるように言う。
「こんなに沢山、また 様に怒られますよ」
「いや、見かけるとついこれもいいのでは、あれもいいのではと思ってしまうんだ…」
 困ったような顔をしているが、彼は全く反省せず同じことを繰り返していると、他人事ながらメルケは思う。
 彼が抱えた荷物の大半は、招待されている家の子供への贈り物だった。
 数年前から生じた縁で、この砂色の瞳の元帥は時折このように綺麗にラッピングされた箱をいくつも携えてこの場所を訪れるのだ。
「メルケ大尉は、お遣いですか?」
「ええ、殿方の好きなお酒のことはよくわからないからと、仰せつかって私が選んで参りました」
「それは楽しみだ」
 談笑しながら春の花が咲き乱れる庭を抜け、扉の前に立って呼び鈴を鳴らす。

 客を慮り、メルケは一歩下がった場所からその様子を眺めていた。
 明るい色合いの花束を胸に佇む青年の後姿。
 いつか彼が地上車で送り出したあの人と似た姿だと、彼は思う。

 遠くで幼子が母を呼ぶ声が聞こえる。
「おかあさま、はやくはやく!」
「待って、リア」
 扉越しの会話が近づい来て、開いた隙間から暖かな光があふれ出た。
「いらっしゃいませ、ミュラー提督」
「いらっしゃいませ!」

 赤毛の上官が見られなかった光景に迎え入れられる砂色の髪の元帥を、メルケは目を細めて見やった。
 そこにあるのは、確かにひとつの幸福の姿だった。
 抱いた想像を口に乗せることなく、メルケはただ佇む。

 夕日に暮れる燃えるような赤が空を包みこんでいる。
 その下で微笑む亜麻色と、赤みがかった金と、砂色。
「メルケ大尉?」
(いずれ…)



 忘れたりはしない。残ったものが、確かにある。

 ただ、新たな日々が過去に連なっていくだけなのだ。

 形を変え、色を変え、巡る想いが新たな日々を作り出す。

 変わるからこそ、あの人の色を、あの人のいた日々を懐かしむ。



The end of scarlet days and turn into...