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『ヤン・ウェンリー少尉は本日をもって中尉に昇進、エル・ファシル星域駐在部隊司令部への転属を命ずる』
 そんな命令書が、統合作戦本部記録統計室という安寧から彼を追いやった。
 正式に職業軍人となって二年目の宇宙歴788年にして、ヤンは初の前線勤務に着いた。
 ヤンの胸中には戦争の最前線へ赴くことによって生じる危険度の高い未来への恐れや、反対に戦功を上げんとする前途への希望といった感情は皆無だった。ただ、面倒だな、とか、仕方ないな、という考えが胸を占めていた。
 一応は給料分の義理は果たそうという心意気で軍務に臨んではいたが、新たな配属先で彼は「ごくつぶし」の名を戴き、その意味に相応しい働きしか示さなかった。つまり、押し付けられた仕事以外は、自ら進んで何かを成そうとしなかった。愛国心とやる気の欠如は態度に滲み出ていたらしく、救国の使命に燃える周囲からの信頼を得られるはずもなく、足を引っ張らないように大人しくしろと、厄介者扱いを受けた。
 同僚達の冷遇に直面しても、ヤンは変わらず自己犠牲を礼賛する類の研究会という名の酒席には顔を出さず、非番の日には緑地公園で日向ぼっこの傍ら読書に励み、それを目撃した上官のリンチ少将からは「同盟軍人の望むべき姿」の訓辞を受ける有様だった。
 そんなヤンであるから、幕僚の一員として赴任したはずが、作戦会議となれば円卓の片隅に座って、話を聞くことしかさせてもらえなかった。その境遇は自身が社交や軍内政治を忌避した結果で、発言権を得られなかったのは自業自得と知るヤンは、自分が不当な扱いを受けているとは思わなかった。だがあまりに端へ追いやられると、前線勤務の都合上、いつか何かの作戦で体よく捨て駒にされるかもしれないとは考えていた。
 巡洋艦のちょうど真ん中、艦の横腹に位置する休憩室のベンチに腰掛けたヤンは、展望用の長方形の窓からぼんやりと外側を眺める。
 大気の存在しない漆黒の宇宙とヤンを隔てる耐圧ガラスに、些か疲れた表情の自分が映っていた。目の下が落ちくぼんで黒ずみ、剃刀をあてる間もなかった顎には無精ひげが頭を出していた。
(ひとつ間違うと、その次も、さらに次も、足を踏み出す先は自分の望んだ場所から遠くなる道しか残ってない。人生、ままならないもんだ)
 思えば父が不慮の死を遂げたあたりから、ヤンの人生は不如意のルートへ直行したのだった。
 ヤンは士官学校へ入学して以降、しばしば父の至言を思い出した。金銭があれば、他人に頭を下げないで済むと言った父は正しかった。歴史を学びたいと望む一方で、生活していく金にも困っていたヤンに、選択の余地はなかった。同盟軍士官学校の門戸は、貧乏人にも広く開かれていたのだ。
 不眠不休に加え、食事だって十何時間以上前に食べたサンドイッチきりで、身体に充満する疲労感は頭を重くさせる。ここ数日の出来事に対する精神的なストレスも相まって、風采の上がらない自分の顔はいつも以上に生気が乏しく、許されるなら今すぐにでもベッドに突っ伏したいという心根がはっきりと浮かんでいた。シトレ校長あたりに見られたら、しゃきっとせんかと怒鳴られそうな風情だった。
「わからないものだなぁ」
 もう二度と会えるかわからない面々の顔が思い出されて、溜息のような力ない声が口から漏れ出た。
(将来を嘱望されたリンチ少将が逃亡して、ごくつぶしの自分が民間人を後方へと脱出させる…なんてこと、昨日まで誰も考えなかったはずだ)
 エル・ファシル星域での一連の戦いによって、星域駐在部隊は、増援を迎えた帝国軍3000隻に対して200隻で対峙させられることになった。数の道理で計算した誰もが、自由惑星同盟軍の勝ち目など万に一つもないという結果を弾いた。その点については、ヤンとエル・ファシル星域駐在部隊司令官であったリンチ少将は見解を同じくしていたが、両者の大きな違いは、前者が一介の中尉にすぎない一方で、後者が司令官であるが故に命令権と部隊指揮権を保持していたことだった。
「ヤン中尉、君に重大な任務を任せたい」
「はあ」
 リンチ司令官はヤンを呼び、エル・ファシルに居住していた300万人からなる民間人の脱出作戦の指揮を命じた。
 「ごくつぶし」の名を冠するヤンとしては、自分が生け贄の羊として帝国軍に捧げられようとしている事実に対して、命令受諾の敬礼以外の答を持たなかった。軍隊では、上官の命令は絶対なのだ。死ねという命令だって、甘んじて受けねばならない。
 とはいえヤンは死にたくなかったし、限りなく同義としても死ねと言われたわけでもなかったので、民間人脱出という任務を請け負って当面の雑事に没頭し、脱出の時機を窺っていた。
 新米中尉に脱出作戦を全面的に任せる傍らでリンチ少将は逃亡を図るだろうという予測は、状況を鑑みればほぼ間違いなかったし、現に事態はヤンの予想図に沿って推移した。
「ヤン中尉! 大変です! リンチ少将が、司令官閣下が、我らを残したまま残存部隊を率いて、エル・ファシルから離れていきます!!」
 血相を変えた兵士の報告を、ヤンは無感動に受け入れた。周囲が騒然とする中、ヤンは飄々と言ったのだった。
「それでは、帝国軍が彼らを追い掛けている間に、我々も脱出しようか」
 エル・ファシル星代表の政治家にせっつかれながら脱出船の手配や輸送の準備を整えたヤンは、リンチ少将率いる200隻の駐在部隊を囮として、民間人300万人と共に脱出した。憐れなリンチ少将は自ら帝国軍の網へと突っ込んで捕獲され、レーダー透過装置を持たない急ごしらえの脱出船団は、逃亡者たちを尻目に悠々と後方星域へ向かって順調に航行した。
 冷静に状況を考慮できる人物であれば、自滅の方角へ全力で駆け出したりしないものだが、不幸なことにリンチ少将には先見の明がなかった。
 司令部付き幕僚の任を拝命していたヤン・ウェンリー中尉としては、帝国軍の包囲網の危険性を具申する義務があったかもしれない。けれども言ってもどうせ聞き入れてはもらえなかっただろうし、ヤンは押し付けられた命令の民間人脱出の方がよほど軍人としての義務にあたるという信条の持ち主であったので、リンチ少将に心の中で謝罪と感謝を捧げて、自らの任務を遂行したのだった。
 緩やかな動きで左から右へと流れていく星の光を横目に、ヤンはぬるくて不味いコーヒーを啜る。
 軍部はコーヒー党で占められているらしく、艦の休憩室付近のドリンクサーバーにはヤンが好きな紅茶は置かれていなかった。高級士官ならまだしも、下っ端中尉には茶葉で淹れた紅茶など夢のまた夢だったので、ヤンは味覚の不満を真っ黒なコーヒーと共に喉の奥に漫然と流し込むしかない。
「苦いなぁ…」
 ぽつりと、誰に向けるでもない独り言がこぼれた。
 ヤンは、リンチ少将や同僚であったエル・ファシル星域駐在部隊司令部の幕僚に対して、特別に好悪どちらかの感情を抱いてはいなかった。
 リンチも若くして少将の地位にあり、将来を嘱望される士官「だった」し、普段の上官は地位に相応しい有能さで振る舞っていた。ただ、そうしてエリート街道を走ってきた人物だけに極端な自己保身に走ってしまったのだろう。そう考えると、ヤンは民間人を捨てて逃亡したリンチに憐憫を覚えこそすれ、怒りなど抱きようがなかった。
 誰にだって、家族や大切な者が存在する。リンチ少将や、彼についていったヤン以外の幕僚、そして命令として司令官に従わざるを得なかった兵士たちだってそうだろう。軍人としては利己的と断罪される行動であっても、リンチ少将の人間としての欲望を押し止めることなど誰もできはしないのだ。生命の存続や自由がより確保された道を、誰だって選びたいと思うはずだ。丸腰の重石付きで帝国軍の前へ出て行くより、一応は武装した戦艦に乗った方が安全だと、彼は思ったに違いない。そのように、ヤンはリンチの思惑をなぞることができた。
 軍人としての義務を放棄した、利己主義の恥知らず。そう人々はリンチ少将を非難するだろう。
 しかし、エル・ファシル星の民間人を伴って航行するヤンは、自分自身もひどく利己的であると思うし、現状はその利己的行為の結果にすぎないと知っていた。
 ヤンは死にたくなかったし、民間人も助けたかった。だから憐れなリンチ少将以下5万人近い将兵を、囮に使った。彼らと共に後方星域へ撤退するための方策を、真剣に、全力を尽くして考え、具申しなかった。
(同じなんだ)
 民間人だの軍人だのの垣根を取り払ってみると、ヤンが採用した脱出作戦は、リンチ少将のそれと酷似している。つまり、自分以外の誰かを犠牲に仕立てて、自分は助かる、という策だ。
 無論、職業軍人と民間人には大きな違いがある。軍人は民間人を保護する義務を負うからこそ、国費から給料を得ることができるのだし、武力を行使することができる。敵が来襲した場合には、軍人が盾となり、矛とならねばならない。そう規定された職業にある人々を、軍人と呼ぶのだ。だからこそ、民間人を見捨てたリンチ少将は糾弾されるだろうし、恐らくヤンの為したことは、ヤンが望むと望まざるとに関わらず功績や英雄的行為に分類されるだろう。
 ヤンの理性や信条は、自らの行いは決して愚かなことではなかったと知っている。5万の将兵と引き替えに、300万人の民間人を救った。道義上も、数字上も、ヤンに非はない、そう人は言うだろう。
 だが、人を殺した、犠牲にした、そういう後ろめたさはヤンの思考に付きまとい、離れていってはくれない。
 ヤンはエル・ファシル脱出行において、初めて自らの意図で人を犠牲にした。軍人になったというのに、今までどこか遠い場所にあった人殺しという作業が、身近なものになった。
 前線における初陣というなら、数日前のエル・ファシルの戦いがそうだったろう。しかしヤンは艦橋でリンチ少将の背後に突っ立っているか、椅子に座っているかしかしていなかった。命令は全てリンチ少将によって決断され、敵艦を撃つことや味方に損害を出したその責を、直接的に問われずに済んでいた。
 苦いばかりのコーヒーを飲み干して空になった紙コップを、行き場のないやるせなさが、ぐしゃりと潰す。舌に残った苦い後味は、気分を惨憺たるものにしこそすれ、爽快にはしてくれなかった。
 ベンチの背もたれに上半身を預けて天井を仰ぎ、ベレー帽を顔に載せて目を閉じる。
(ヤン・ウェンリー、お前が一体どれほどのもんだって言うんだ?)
 ヤンは答を知っている。
 成り行きで軍人になって、人を殺すことに自己嫌悪しているような一介の大馬鹿野郎、だ。
 自分の手を汚すことは嫌で、他人の手が汚れることは見過ごしてきた。自分だって同じ穴の狢だと言うのに、今さらその事実にショックを受けてどうなるものでもない。自己嫌悪だって単なる利己的行為だ。自分を責めて、自分で言い訳を与えて、自分を慰めている。
 軍人として生きるということは、利己的計算の繰り返しとなるだろう。それも、個人の利益ではなく軍全体の利益を考慮しての選択を強いられる。いつだって誰かが犠牲となり、その分だけ誰かが助かる。全てを助ける、という愚かな希望に縋るほど、ヤンも幼くはない。可能性を信じることはすべきだが、万事が万事、犠牲を払わずに上手くいくほど世の中は簡単にできていない。
(父さんが言った、金銭が重要って言は全く真理だったな)
 あの言葉は、単純に金だけを指すものではなかったのだと、22歳になろうとするヤンは思う。
 何かを為すには、対価が必要なのだ。
 敵を殺すことも、味方を囮に使うことも、それに自己嫌悪を覚えることも、すべて対価だ。何かをしたいと思うなら、それ以外の何かを捨てなければならない、そういう意味が父の言葉には含まれていたのだろう。
(金はないし、学費の返還義務が消えるにはまだ数年は軍にいなければいけない。今のところ、価値になりそうなものといったら士官学校卒の士官になれたことくらい。今さら軍をやめても、いつ招集がかかるかわからない)
 ヤンは五角形の星が描かれた軍帽を顔から持ち上げ、姿勢を起こす。ベンチから腰を上げて、歪んだ紙コップをダストボックスへ投げ入れようとして、失敗した。あらぬ方向へ飛んでいったコップを苦笑しつつ拾い上げ、今度は自分の身体をダストボックス脇まで運んでゴミを捨てた。
 ポケットに手を突っ込み、なんとはなしに再び窓の外へと視線を投げる。
 名も知らぬ星が連なり、果てなく続く広大な空間。
 壁も何もない場所に、人は勝手に自由惑星同盟という国と、銀河帝国という国を作った。互いに自らの政治体制を維持するという名目の下に、その国に生きる人々を対価として戦い続けている。百年以上も続く戦争の中で、ヤン自身も対価にされ、そして帝国の対価と取引されている。
 何を目指して。
 何のために。
 ヤンは、300万人の民間人を救うためなら、5万人の将兵を犠牲にしてもいいと思った。そこに、いまだ曖昧な形しかない、自分の為したいことがあるはずだった。人殺しの誹りを甘んじて受ける対価を払ってでも、為したいと思うことが。
 ヤンが軍人になったのは、銀河帝国打倒のためでも、民主主義の理念を心底から素晴らしい物と信じて殉じたいと思ったからでもなかった。
 たまたま、生まれた場所が自由惑星同盟という場所で、その国は銀河帝国という国と対立し、専制君主制の圧政からの開放を目指した戦争を百年以上の長きにわたって続けていたという、彼の力では如何ともしがたい環境要因がまずあった。もう少し身近な理由を挙げてみると、多少は他人の同情を頂戴できるかもしれない。父が死んだ。金がなかった。歴史を学びたかった。生きてゆかねばならなかった。だから彼は、軍帽をかぶり、自由と民主主義の大儀を掲げる戦争という行為に馳せ参じた…形となった。それは単なる愛国的バイアスのかかった理解形式にすぎない、そうヤンは思っていた。
(昨日までは)
 けれど、いまならばわかる。人を殺すには、意味が必要なのだ。何か目的がなければ、単なる機械の一部に、それこそ人間的価値を忖度されない対価に、ヤンは成り下がってしまう。
 誰かに与えられたのではない、自分自身で探すべき戦争の意味。
 窓に反射する自分の顔に向けて、ヤンは心の内側で言葉を紡いだ。
(どうしたいんだい、お前さん)
 戦って、どうする。一時的であっても、平和な停戦期間がもたらされればいいのか。自由惑星同盟が滅亡しないようにしたいのか、それとも民主主義や自由を…。
 広大すぎる宇宙の片隅を航行する巡航艦の休憩室で、ヤンは考える。
 それはまるで、宇宙の中でたったひとつの小さな星を手探りでみつけようとする行為に似て、ひどく難しい問いだった。
 左腕の通信機に呼び出され、ヤンは艦橋へ向かうため思索の海から意識を引き上げる。
 悩む前にすべきことは、望むと望まざるとを問わず現実にそこにある。
 星は無言で黒い海にたゆたっている。その波間で、ヤンはもがいている。
(考えろ、ヤン・ウェンリー)
 答えは、まだない。

 
英雄前夜


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