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 陛下は、薔薇がお好きだ。
 いつからそのような趣味を持たれたのかは、わからない。けれど私がこの場所に来た時には、既に陛下の日々の中には、薔薇を愛でる時が含まれていた。
 幾重もの花垣を、陛下は飽きることをご存知ないようご覧になる。銀河帝国の頂にある御方は、時を惜しまず手ずから蕾や茎を間引き、大輪の花を咲かせることに腐心しておられた。
 古来の薔薇に見られた茎の棘は、ここ無憂宮殿には見られない。至高の座にあられる陛下を傷つけるものは、例え植物であっても許されないのだという。
 陛下のご寵愛、そして庭師の決して表には出ぬ努力によって、無憂宮殿の薔薇は憂いを知らず艶やかに咲き誇る。
 晴れた日には時折、陛下は宮廷内の限られた者しか出入りできない園へ私をお連れになった。
 私は庭園の一角に設えられた東屋で、ただ、緩慢に過ぎゆく時に身を委ねる。
 陛下がしばしの休息をお求めになったなら、私は陛下をお迎えする。宮殿の外にいた頃は想像もつかなかった美しく高価な器に望まれるまま酒を満たし、淑やかに微笑んで差し出すのが役目だった。
 陛下のお望みとあらば全てよいように取り計らい、ただ陛下の御為のみに生きよ。
 私が後宮という名の園へ召し上げられた時、その庭園を取り仕切る女官長に告げられた言葉だった。部屋中が、えもいわれぬ、むせぶような薔薇の香に満たされていたのを覚えている。
 ひととき御身の憩い場となれ。微笑み、恭順を示してかしづけ。この身も、心も、全てを捧げよ。
 ただ、物言わぬ花のように。
 私はその言葉に抗うことなく、陛下に従った。
 死んだ母の顔や、父の怯えた背、涙に濡れた弟の蒼い瞳、隣家の赤毛の少年や彼に貰った可憐な花を脳裏に浮かべ、そして私はそれらを思い出と名付けた箱に仕舞い込んだ。
 それから、私は運命という名の逃れようのない鎖に頭を垂れて、皇帝陛下の御許に花として侍ることを従順に受け入れた世界に、抗うことなく囚われ続けている。
「伯爵夫人(グラフィン)」
 女官が私の名を呼んで、陛下が四阿にお戻りになっているお姿を視線で示した。
 私は静かに立ち上がり、数歩を踏み出して階を降りる。陛下の御前ながらも叩頭をしないのは、宮の表で他人のつむじを見るのは飽いたと仰る陛下が、そうお望みあそばした故だった。
 四阿の陰から出ると、傾ぎ始めた陽の光が目映い。つい先日まで、この時刻の太陽は空高く輝いていたのに、秋も随分と深まったのだと今更ながら過ぎる季節を感じた。
 ここに来て、何年が経ったのだろう。
 時を数えるのも億劫になるほど、無憂宮殿の日々は変化が乏しかった。
 他人が羨むような、飢えることなく、贅沢な品に囲まれ、皇帝陛下の寵愛を戴く暮らしも、私にとってはあの日々を取り戻すことが出来ないと思い知らされるばかりだった。
 心飛ばした日々の中では、毎日が違って見えた。季節は確かに移り変わり、明日は新たな一日なのだと、思うことが出来た。明日になれば、何か違うことが出来る。尽きぬ可能性を無邪気に信じ、そして確かに私の手中には未来があった。
 私は陛下の隣に身を滑らせて御身を支え、四阿の階段を共に登った。庭先に置くには不似合いな二人掛けの布張り椅子に並んで座り、侍女が用意していた酒杯を受け取って恭しく御許に捧げた。
「どうぞ」
 陛下は細く骨張った御手をさしのばされ、繊細な彫り模様が刻まれた杯の中身を瞬く間に飲み干してしまわれた。
 サイドテーブルに一旦置かれたグラスに、侍女が新たな酒を注ぎ足す。蜂蜜色の流れが、透明な硝子に緩やかに満たされていく様を私は横目で見ていた。
「アンネローゼ」
 静かな声が、私の名を呼ばわった。酒に灼けた嗄れた、けれども奇妙に気品のある低い御声。どんな時も、陛下は私の名を静かに、激情とは無縁な声でお呼びになる。
 私は口元に微かな笑みを載せて、目を伏したまま応えを返した。
「はい、陛下」
「物憂げだな」
 肯定することも、そして否定することもできず、私はただ困ったような表情で沈黙を保った。
 物憂げと言うなら、陛下はいつだって、何事に対しても物憂げなご様子であらせられる。
 そう、心の中で呟く。
「憂き世の花よ」
 陛下は侍従を呼び、彼が捧げ持つ銀盆から、御自ら手折られたという白い薔薇を取り上げて鼻先に近づけ、仰せになった。
「花が美しいのは、ほんの一瞬のことよ。どんなに人を惹きつける麗しい色香も、時が経てば色褪せ、瑞々しかった花弁も醜く朽ちる。だが、いずれ朽ちる日を憂うからこそ、咲き誇る花はいっそう美しく、心を惹きつけるものよ」
 そして陛下は、戯れのように私の髪に薔薇をお挿しになるのだった。
「花は散り、人は死ぬ。いずれ無くなるものならば、盛りを味わえ。憂えても終わりは変わらぬ。そうは思わぬか、アンネローゼ」
 至尊の冠を戴く銀河帝国皇帝の御言を、一介の妾妃が否定できるはずもない。私に許された返事は、考える必要もなく決まったもので、肯定以外の言葉など口にしてはならない。
「ええ、その通りでございます。我が陛下(マイン・カイザー)」
 陛下は、そのまま酒に耽溺なさった。
 我が身の境遇を、私は嘆きはしない。胸の奥底で輝く日々を抱いて、私は憂き世に抗うことなく我が身を委ねる。
 朽ちた花は、地に落ち、そして次代の糧となる。
 ただそれだけが、いつまでも続く憂いの日々を払う最期の光明のように、今の私には感じられた。
 その夜、私は陛下のおとないを受けた。
 陛下の贈り物だからと女官が枕辺の花器に挿した薔薇の芳香が、あの初めての夜を思い起こさせた。
 早く朽ちればよいと、私は寝台の中で祈った。

 
朽ち花の祈り


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