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 彼以外に生命の気配のない室内を、静寂が支配していた。
 先程まで彼の周囲で繰り広げられていた喧騒は既になく、ホテル・シャングリラから拉致されたレンネンカンプは、薔薇の騎士連隊の手によって彼らのアジトと思しき建物の一室に監禁されていた。
 建設途中の建物なのか部屋の内装は未完成で、建材や防音壁がむきだしになっている。灯りも天井からつり下がった裸電球ひとつの有様で、室内を隅々まで照らすには頼りない光を投げ掛けるにすぎなかった。
 仮にも帝国軍上級大将たるレンネンカンプを遇するには豪華さと高級さが不足していたが、彼自身、自分に手厚くもてなされる価値などないと信じつつあったので、そのことに文句を言う気になれなかった。
 ヤン・ウェンリーと等価の扱いを受けられぬはずもない、惨めな負け犬。それが自分なのだ。
 彼は薄暗い急拵えの牢獄の中、ただ絶望に蹲り、自身を問い詰めた。
 レンネンカンプは、自身がどこかで道を大きく違えてしまったことに今や気付かざるをえなかった。
 何を違えたのだろう。どこで誤ったのだろう。
 底冷えのする空気が頭を曇らせていた熱を奪い去ったのか、冴え渡る思考が理路整然と答までの道程を明らかにしてくれた。
 だが実際の所、彼はとっくに答を掌に握りしめていた。ただその答を自負心が認めることを嫌って、目を背けていただけなのだ。
 彼は開いた両掌を見つめ、たった数時間前まで信じ切っていた輝かしき未来が、根拠のない幻に過ぎなかったことを受け入れた。
 公人として職務を全うすべき責任ある高等弁務官の地位にありながら、自分は妬心に従ってヤン・ウェンリーを陥れようとした。自身が戦場で苦杯をなめさせられたように、黒髪の魔術師に苦渋を味あわせたいと望み、客観的事実もないままにヤン・ウェンリーを謀殺しようとした。
 いや、ヤン・ウェンリーはいずれ帝国に仇なす可能性が高く、年金暮らしにいそしむ退役軍人を死に追いやる是非はこの際よしとしておこう。仮にそうだとして、レンネンカンプは幾つもの失策を重ねてしまった。実証なき密告を信じ、同盟政府に対してヤン・ウェンリーの逮捕をなかば強要したこと。事態が悪化しハイネセンの治安維持が困難になった段階で、ガンダルヴァ星域のシュタインメッツ艦隊に来援を請わなかったこと。そして現在では、上級大将でありながら敵の虜囚となっている。
 公正さを欠き、私心によって平穏を乱したのは彼自身であった。
 同盟の英雄を斃せば失地回復になり、帝国元帥の座も夢ではないと、出世を望んでしまった。身の内に巣くう悪しき自分に甘言に、身を委ねてしまった。
 もはや、規を自ら越えた過ちは明らかである。これ以上、何も考えたくはない。
 自身の行いが蛮行に分類されると認識していても、彼はそうせざるをえなかった。生きて敵味方の双方から嘲笑を受ける位ならば、いっそ。
 これまで規律を人生の友としてきた彼には、自らが規律に背き、落第生の烙印を押されるだろう未来が何よりも耐え難かった。
 彼は軍服の上着を脱ぎ、従卒に言いつけて強く糊をきかせておいた白いシャツのボタンを、ひとつずつ外していった。
 指が服の袷を降りていく間、レンネンカンプは宇宙の彼方に残した家族のことを思った。
 休暇の日には腕によりを掛けた料理で彼の英気を養ってくれた妻。成績優秀で前途の期待される息子。何よりも可愛かった娘。年老いたが、まだヴァルハラからの迎えが来るには至っていない両親。
 いまいちど別れを告げたくはあったが、会わせる顔がないとはこのことだった。
 彼らにとって自慢の家人であったはずのヘルムート・レンネンカンプは、もういない。
 今や虜囚の辱めをうけ、仮に帝国軍によって救出されても罷免は免れ得まい。同盟に利した馬鹿な武人と罵られるくらいならば、自分自身の始末は、自らの手でつけよう。
 それが武人である自身の最後の誇りの拠り所になる思いが彼にはあった。
 過ちには罰を与えねばならない。それが規律というものではなかろうか?
 これは正しいことであると、彼は脱いだシャツを壁から飛び出した建材に結びつつ、繰り返し唱えた。
 戦場に散る栄えある死ではなくとも、これが武人の気高き死に様である。
 その死を見る者も誰もおらず、自身の結末が埃くさい部屋に残される事実を、彼は意図的に無視した。
 軍服の上着を寸分の歪みもなく普段通り着込み、手櫛で髪と髭を整え、彼はシャツで作った輪をくぐった。
(大神オーディンも照覧あれ。ヘルムート・レンネンカンプは、自らの分を全うした、と)
 レンネンカンプは足を前方へ投げ出し、全体重で頸動脈を圧迫する体勢を自ら取る。
 くぐもった苦悶がしばし静寂をかき乱し、そして再び凪いだ海のように静まりかえる。
 生命ある者のいない寂れた部屋に、物言わぬ戒めだけが残された。

戒め



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