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10.75




 子爵夫人のお召しは、アーダルベルト・フォン・ファーレンハイト少佐にとっては当初、面倒以外の何者でもなかった。
 貴族とは言え彼からしてみれば雲上人の子爵夫人が、何の気紛れで貧乏貴族の少佐風情を呼ぼうというのだろう。楽しい会話ができるとも思えない。
 しかしファーレンハイトは、晩餐会についての詳細を伝えてきた相手を見て、その考えを方向転換させることになった。
 多彩な噂の持ち主である子爵夫人に親しみは皆無だが、その相手に会うために戦艦アウィスへ赴いても良いとまで思ったのだ。それにこの男がいるのなら、流布するうら若き辺境の子爵夫人に関する噂の何割かは真実かもしれないと、ファーレンハイトは考え直す。
 相変わらず面倒な気持ちは拭えなかったが、連絡シャトルが戦艦アウィスに接舷し、扉が開かれる段になってもファーレンハイトは引き返す気にはならなかった。
 その理由の最たる人物が、彼を敬礼で出迎えた。
「お待ちしておりました、ファーレンハイト艦長。小官が食堂までご案内させて頂きます。子爵領小艦隊、司令参謀のヘルツ少佐です」
「よろしく頼みます、第四方面区第十四警備隊、駆逐艦レルヒェ三号艦長、ファーレンハイト少佐です」
 相変わらず真面目なところがあるものだと、栗色髪の士官にファーレンハイトは内心で肩を竦めつつ答礼を返す。堅苦しい挨拶だったが、互いに佐官となっては保つべき体面もある。
「どうぞこちらへ」
 歩き出し周囲の耳目が減ったところで、ようやく“ヘルツ少佐”の雰囲気は和らぎ、彼も良く知る友人の顔になった。
「ファーレンハイトが救援に現れるとは思っていなかったよ。久しぶりだな。変わらぬようで何よりだ」
「俺の方こそ、子爵領と聞いた折には卿の顔が浮かんだものだが、まさか本当に居るとは思いもよらなかった。何やら厄介事に巻き込まれたらしいな」
「ああ、まさかオーディンまでの航路で遭遇戦をすることになろうとは、自分も夢にも思わなかった。閣下にとっては、思わぬ初陣となってしまったことが悔やまれる」
 ファーレンハイトは、このマティアス・フォン・ヘルツという男とは、士官候補生時代に寮で同室となって以来、十年越しの付き合いだった。
 所属も住む星系も異なるため顔を合わすのは数年に一度のことだが、親しみが衰えることはなかった。恐らくそれは、ファーレンハイトにとって最も安穏とした時代、戦術のシミュレーションで小さな菓子を賭けて勝負を重ね、深夜に寮を脱けて息抜きをし、初めて酒を飲んで潰れた記憶の中にこの男の姿があるためだろう。
 前途有望と士官学校でも目され、良い後ろ盾さえ得れば末は提督かと噂された男だったが、卒業後いつの間にか辺境の子爵領に腰を据えてしまった。しかも昨今では幼い領主の護衛の真似事までしているらしい。
「卿が言う閣下とは子爵夫人のことなのだろうが、どうも端から見ると奇妙だ。子供に大の男が仕えるなど」
 言外のファーレンハイトの意図を汲んだのか、ヘルツは僅かに苦笑した。
「そういった外聞は聞き飽きた。直に会って話せば伝わることも多々あると思うから、今は反論を控えておこう」
「通信画面で見た限りは、普通の令嬢のようだったが。まあ、今から話せば分かるのだろう。それより卿は、卿の閣下がなにゆえ俺を招いたのか、その意図を知っているか?」
 ファーレンハイトを先導するヘルツは、次の角を曲がれば食堂に到着であると告げて立ち止まった。同じようにファーレンハイトも足を止め、旧友と向き合う。
「あの方の深慮は、自分にも計りかねるよ」
 ヘルツは笑んでいた。優しげな風貌をした男の表情に、ファーレンハイトは悪態を吐く。
「あの方の深慮とやらは分からぬが、その顔の意味を俺は知っているぞ。まったく、卿は変わっておらんな」
「そうかい?」
「そうだ」
 ファーレンハイトは士官候補生時代、今と同じようなマティアス・フォン・ヘルツの顔を幾度も目にした。
 戦術シミュレーションの際に、対戦相手をまんまと策に陥れた時にもこの男は優しげに笑っていた。
 ファーレンハイトは思う。自分は既にヘルツの、もしくは彼を従える閣下とやらの術中にいるのだろうか。
「さあ、時間です。ファーレンハイト少佐、どうぞこちらへ」
 居住まいを正して少佐として振る舞うヘルツに導かれ、ファーレンハイトは食堂の扉をくぐる。
 不安と期待を胸に抱いて。



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