子爵TOP




 身体を揺らす微かな振動に、カイルの意識は覚醒した。
 意識が眠りを振り払って現実を知覚するやいなや、染みついた習性がブラスターを探す。
 枕の下で慣れ親しんだ持ち手を掴んだところで、カーテン越しに閃光が瞬いた。
 しばしの間を置き、空の割れる音が闇に響いた。窓硝子が小さな叫びを上げ、ベッドに横たわる彼の身体にも地に落ちたエネルギーの余波が伝る。
(…雷か)
 カイルは、口の中で呟いた。
 残響が消え、静寂が耳を突き刺す。念のため周囲の気配を窺ったが、室内に異常はない。いつの間にか詰めていた息を解放し、臨戦態勢の警戒網を吐息とともに僅かに緩め、中途半端に立ち上がろうとした体勢でベッド上に固まる自分を見下ろしてカイルは己の滑稽さを笑った。自分は随分と、小心者なのだと。だが何事もなく、ひとり間抜け面を晒しただけで済んだのは幸いなことだったろう。滑稽を嫌って違和感を放置した結果、眠ったまま殺されるのは御免被りたいものだった。
 唐突な目覚めのせいで、眠気は遥か遠くまで吹き飛んでしまっていた。例え再び枕に頭を沈めても、意識は眠りに落ちてはくれないだろう。
 彼は就寝の努力を放棄した。無駄な足掻きはしないに限る。
 枕をクッションにしてヘッドボードに背を預け、しばらく不規則にうなる雷鳴を聞いていた。葉擦れが騒々しさを増したかと思えば、いつのまにか雨音が加わっていた。いよいよ雷雲は近付いているらしい。
 再び闇をひととき電子の奔流が照らし、カイルは光と同時に頭の中で秒針を刻んだ。ちょうど10を数えたとき、遠く大気の底から這い出るような重低音が鼓膜を打つ。およそ3.4キロの距離、そう計算しながら、手中のブラスターを見下ろした。
 思いつきのようにエネルギーカプセルをエジェクトして残量を確かめ、再びセットして安全装置を解除する。
 思えば、もう三ヶ月近く本物のブラスターのトリガーを引いていない。これまでの日常に比べれば、珍しい状況といえる。
 退屈ではないものの、どことなく弛緩した緊張。緩い倦怠感が、じわじわと彼の内側を侵食していくようだった。この先もずっとこの日常が続くのならば、カイルはいずれ姿を消すつもりだった。ぬるま湯は気持ちよく感じられることもあるが、彼は温もりを求めて帝国の辺境くんだりまでやって来た訳ではない。
 ふと夢を思い出し、いつからか離れることのない誘惑にカイルは駆られた。
 思考が手順を組み立てる。想像を実行に移した結末も考えた。逃走経路にも宛はあるし、難しいことは何もない。だが結局、いつもと同じところで彼は踏みとどまった。
(あんなに面白い観察対象を、むざむざ壊すのは勿体ない、か……)
 なんせ壊すのは簡単だが、彼をはじめ、この世の誰にも壊れたそれを直すことはできないのだから。
 カイルはベッドから降りて身繕いを整えた後、安全装置をセットし直しなおしたブラスターを脇下のホルスターへ納めた。
 通信機で時刻を確認すると、午前3時46分だった。日の出までまだ暫くあるが、場所柄、暇つぶしの手段は限られている。室内で大人しく筋力トレーニングに勤しむか、読書に耽るかが、彼に与えられたいかにも乏しい選択肢だった。
(考えるまでもないな)
 彼がいるのは、近頃雇われた 子爵家の護衛にあてがわれた当直室だ。近くの部屋には、カイルと同じように使用人の中で夜勤として詰めている者もいるだろう。何事もなければ朝まで眠り、何かあれば叩き起こされて呼び出される、そういう者たちが過ごす一角が、屋敷にはあるのだった。
 トレーニングは眠る前に済ませ、眠る気は毛頭無い。カイルは残った選択肢を迷うことなく採用して、物音を立てず部屋を出た。
 足音を全く響かせることなく、カイルは静まりかえった廊下を進んだ。使用人たちの部屋がある裏手から屋敷の表側に回って、応接室や客間を越えた先に、小さな図書室がある。そこにある本は当然のことながら子爵家一家のもので、普通は護衛風情が手をつけて良いものでもないのだが、カイルは時折こうして暇つぶしに本を拝借しに来ていた。誰にも知られなければ構わないし、気付かれなければ何事もなかったことと同じだと彼は思っている。
 銀河帝国史三巻は読み終えたから、続きの四巻か、それとも気分を変えて豊富に取り揃えられた軍事学関連の書物を漁るべきか思案しつつ扉の前に立ち、カイルは室内の気配に気付いた。どうやら雷に目覚めた者が、彼の他にもいたようだ。
 そっと扉を開け、部屋に滑り込んだ。夜中に好んで本を読もうとする者――しかも子爵一家の誰か――となれば、恐らく彼が考える人物がこの先にいる。
 灯はついておらず、図書室内の大部分は薄暗い闇に閉ざされていた。奥の本棚の一角の天井にオレンジ色の頼りない光がゆらゆらと揺れていた。時代錯誤な雰囲気優先の電気手燭の光だろうと、カイルは思う。
 息を殺して物陰から光源を窺えば、そこに居たのは予想通りの人物だった。
 脚立の最上段に腰掛けた幼い少女が、両手で抱えなければ持てないような分厚い本を膝に置いて、一心不乱に読み耽っている。棚に並ぶ本の隙間に積み重ねた何冊もの本は、既に読んだものか、これから読むものなのだろうか。
 少女が居る辺りは、歴史関係の棚だったはずだ。何か、熱心に調べたいと思うようなことがあったのかもしれない。
 しばらく観察し、そろそろ声を掛けようとカイルが思ったとき、室内が一瞬、明滅した。かと思うと、相変わらず唸っていた雷鳴がいっとう大きく轟く。怒号というに相応しい響きで、まさしく、雷が落ちた。
(近かったな。裏の林にでも落ちたか)
「……びっくりしたー」
 突然の爆音に驚いたように顔を上げた少女は独り言を零し、手元の本をぱたりと閉じた。
 どうやら夜更かしな少女は、これからさらに読書に勤しむつもりなのだということをカイルは知った。少女は本を抱えて、脚立を降り始めたのだ。
 危なげなく、とは言えなかった。分けて往復すれば良いものを、少女は大判の本を少なくとも五冊は左腕に抱え、一気に持ち運ぼうとしていた。もう一方の手にはランプを持っているため、不安定この上ない姿勢だ。
(落ちたら笑えるな)
 思っていたら、本当に少女はバランスを失って脚立から落ちかけた。どうやら裾の長い寝間着に足を取られたらしい。
「う、わっ、落ち、落ちる!」
 本が盛大な羽音を響かせて落ちていく。重力に抗うように腕をばたつかせていた少女も、抵抗空しく仰け反ったまま宙に浮いた。
 あの体勢では首が危ない、そう思ったカイルは暗がりから身を躍らせて、次の瞬間には少女を受け止めていた。手放されたランプも弧を描いて棚に当たり、甲高い音を立てて二人の傍で砕け散った。咄嗟に抱えた頭を庇う。小さな痛みが、頬を掠めていった。
「…あれ?」
 間の抜けた声が、すぐ近くで聞こえる。
 唯一の光源を失った室内は、ほとんど闇に閉ざされている。見えない周囲を探ろうとする小さな手が、ぺたぺたとカイルの胸元や脇腹を触っていた。
「これ、誰?」
「馬鹿か、お前は」
 カイルは思わず、呆れながら呟いていた。
「あ、カイル?」
 肯定も否定もせず、彼は危うく事故現場になりかけた脚立の側から少女を抱えたまま離れた。足元には壊れたランプの破片が散乱し、一歩踏み出すごとに砕けた硝子が悲鳴を上げる。そのまま数歩進み、灯り取りの小さな窓の近くでカイルは少女を床に下ろした。
「動くな」
「……うん」
 間を置いて返ってきた声が、どこか笑っているように思えたのは気のせいだろうか。
 カイルは窓辺を離れ、先程くぐった扉へと歩み寄った。目的は、室内灯のスイッチである。光がないのに所狭しと並ぶ本棚にぶつかりもしないのは、仕事柄のせいもあるし、色の薄い琥珀色の瞳も役立っているのだろう。色素の乏しい虹彩は、夜目が利くという。
 ぼんやりと闇に浮かんだ長方形の扉の横に手を伸ばし、スイッチをまさぐる。触れたそれを押せば、すぐに室内は照らされる――はずだった。何度かスイッチを押すが、反応はない。
 カイルは踵を返し、もと来た道を戻った。
 誘惑が、急に頭をもたげていた。屋敷の警備はこの雷雨に綻び、目の前には無防備な子羊がいる。彼を阻むものは何もない。
(簡単な仕事だな)
 何故と問われれば、習性だ、とでも答えたかもしれない。これまでの観察対象は、つまり暗殺対象だった。その方程式に沿って、今やカイルは明確な意図を抱いていた。すなわち、少女をヴァルハラへ送るという意図だ。気まぐれにやって来たのだ。気まぐれに考えが変わることも、もちろんあった。
「雷で、電気系統がやられたらしい」
「うん、近かったもんね。びっくりした」
 窓に張り付いて、雨が降りしきる外を見ていた少女が振り返る。何の疑いも、恐れも抱いていない様子で、三ヶ月前に彼の雇い主となった少女が笑う。
「それより、さっきは助けてくれてありがとう。これは落ちる、って慌てたけど、本当に良いタイミングで現れてくれて、びっくりしちゃった」
「お前、運が良いよな。たまたま俺が来なかったら、首折ってあの世行きだったかもしれないぜ」
(いや、悪いのか?)
 事故で不意に死ぬのと、他者に殺められるのと、どちらが不運と言えるのだろう。抗える機会があるだけ、後者の方がましなのだろうか。
 実行に移すなら、手早くしなければならない。先程の落雷で、屋敷の大多数の者が目覚めた筈だ。心配性の乳母が少女の寝室を覗いて、不在に気が付く時もそう遠くないだろう。
「そうね、きっと、運が良いのね。こうして、ここに居られて、あわやという時にも助けて貰えて」
 視界の暗さに、相手にも自分が見えないと思っているのだろう、弾む声音と表情が一致していない。運が良いと言いながら、なぜ少女は悲痛な面持ちでいるのだろう。
(…まただ)
 解けない疑問が、目の前にある。不可思議な不一致。表面と内面の齟齬を、幼い少女は時折、垣間見せる。
 ここ数ヶ月、子爵令嬢である少女と接してみて、カイルは心底から不思議に感じることが幾度となくあった。何をどうしたら、このような僅か十歳ばかりの貴族令嬢が出来上がるのだろう、と。
 少女は優秀な頭脳を持っていた。権謀術数の類にも思い及ぶ思考回路を幼くして既に兼ね備えているが、その割に荒んだような悪意を表出させることはない。己のように、周囲全てを信用できなくて知恵を身につけた風には見えないのだ。むしろ、人を信用し過ぎるようにも感じられる。
 それに、もともとの出来が違ったなら、これまでその片鱗を見せなかったのはいかにもおかしい。少女が目に見えて聡明さを表に出したのは、つい最近のことだという調べはついている。何か彼女の在り方を変えるような契機があったのだろうか。
 カイルはここしばらく共にあった護衛対象の顔を注視した。こうして見ると十歳という年相応の幼さで、雰囲気の育ちの良さが伺える人形のようだが、顔の造作だけで少女の真価は計れるものではなかった。
 謎の形すら定かではないが、壊せば二度と答はわからない。
 沈黙の中で、天秤が揺れている。
「カイル?」
 口を噤んだままの彼を訝しんだのか、少女が首を傾げ、彼の名を呼んだ。
 いつの間にか、いとけない声音に心地よさを覚えている自分を見出して、カイルは戦慄した。身震いするほど、己が気持ち悪い。
(何を信じようとしたんだか)
 自嘲が秤の片方に、大きな重石を載せる。
 愛らしい声の、何の罪もない少女。けれど、彼は罪悪感など抱かない。
(お前は運が悪いんだ。俺なんかに、目を付けられて)
 絞殺は苦しかろう。ナイフか銃がいい。距離からして、抱えて背をナイフで一突きしよう。そうすれば返り血も浴びずに済む。
(おあつらえ向きな夜じゃないか)
 舞台はこれ以上ないほど整っている。カイルは袖口に仕込んだナイフに、ゆっくり指を這わせた。鞘から抜くときにも、音は立てなかった。
 半身に隠すように逆手に握り、機会を窺う。もう少し近付かなければならないだろうと、二歩、少女へと歩み寄った。
 あと一歩。左腕で小さな体を捕まえようとした時、不機嫌な雷が再び夜を引き裂いた。
 闇に慣れていたカイルの瞳を、閃光が灼く。
 明滅した光が瞼の裏に残って、目の前にいる筈の少女の姿がよく見えなかった。
「あっ」
 ナイフに気付かれたかと、カイルは心の中で舌打ちする。どうせならば、最期まで忠実な護衛の仮面を被ったままでいたかった。そう思ってしまう自分を認識して、先程と同じ嫌悪感が広がる。とにかく、今の自分はどうにかしている。
 余韻が薄れ、視界が開ける。掴み損ねた少女は、きっと後ずさるか逃げ出すかしようとするだろうと、彼は思った。
(さっさと、終わらせ…!?)
 しかし、少女はむしろ彼との距離を詰めてきていた。必死な形相で、小さな手を精一杯伸ばしている。
「カイル、ほっぺたから血が出てる!」
「血?」
 あいにく右手は凶器を握っていて上げることができず、カイルは左手で少女の視線が向かう己の右頬に触れた。ほんの僅かな痛みが傷の所在を知らせてくれたが、自分でも気付かないほど浅いものだ。恐らく、先程のランプの破片が飛び散った際についたものだろう。
「どうしよう、何か拭くもの…顔に傷が残ったらどうしよう」
 左右を見回して慌てる少女が、ひどく呑気者に見える。
(お前を殺そうとしてたんだがな)
「これくらい、どうってことない。傷も残らないほど小さい。舐めておけば治るさ」
「でも……そうだ! あっちの机の抽斗に、確かハンカチがあったはず!」
 そう言って砕けたランプの破片が散らばる脚立の方へ向かおうとした少女は、踏み出した第一歩の時点で盛大にカイルの足に躓いた。
「うっわ」
 咄嗟に右手を出しかけたが、カイルは思い留まった。そのかわり体を移動させて、転びそうになった少女を受け止める。
「結構、間抜けだな」
「でも運が良い、そうでしょ?」
 笑顔でこちらを見上げる少女を見下ろして、カイルは口の端を持ち上げる。手の内のナイフを、そっと動かす。
「本当に、そのようだ」
 カイルは体勢を戻した少女から離れ、刃を元の鞘に収めた。
 時間切れだった。複数の足音が、騒がしく廊下を行き来している。幾つかがこちらへ向かう気配がしている。いま実行しても、逃亡する余裕がなさそうだ。
「傷をそんなに手当したいなら、明るい場所でやればいいさ」
「放っておくと、絶対に何もしなさそうだから、私が消毒して絆創膏を貼ってあげる。助けて貰ったお礼にね」
「安い礼だな。命の恩人に向かって」
「それじゃ、図書室に自由に出入りできる権利を正式に差し上げましょう。ここに居ても文句を言われないように、体裁を整えるのはどうかな」
「ばれなければ、今もこれからも文句は言われないぜ」
 警戒心を抱かれないよう、努めて陽気に振る舞った。
 いつの間にか、雷鳴は遠ざかっていた。鈍い響きが雲間で蠢くように鳴き、火薬銃のノズルフラッシュのように瞬きほどの速さで輝きが空を走っていく。

「運が良いのは、結局どちらだったか」
 カイルは独語した。彼の言葉は音にならず、唇の内側に溶けて消える。
 光の奔流が輝いて彼を包み、そして轟音の中へ落ちていった。

遠雷
 


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