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食べたい


 
「アッテンボロー、行っちゃいましたね」
「ああ、そうだね」
 そう話しかけてきたのは、ひょんなことからアッテンボロー家に居候することになった少女である。
 その日、ユリアンは友人と映画を見に出かけて不在だった。
 少女の監督者であるところのアッテンボローは、艦長を務めるエルム2号が所属する艦隊の緊急招集のために、呪詛を叫びつつ飛び出していってしまった。
 昼間から酒を飲んで普段の憂さを晴らそうとしていたところの呼出しなんぞ、因果な軍人商売とはいえ文句の一つや二つは零したくなるだろうと、アッテンボローを宥めて送り出したヤンは思う。
(やれやれ…)
 話し相手がいてこその昼酒のはずだったが、用意した肴やワインをどうするかと頭を掻きつつリビングへ戻ると、黒髪の小さな少女がちょこんとテーブルについて彼を待っていた。
 現在のところ、ダスティ・アッテンボローの被保護者である少女の名を、 といった。
 年齢は10歳という話なのだが、どうにも子供らしくない子供である。
 言葉遣いや思考が大人びているためだ。けれどもそれは子供が背伸びをして大人ぶっているのではなく、本当に成熟した精神の持ち主なのだった。
 実のところ、ヤンはこの少女を少々苦手に思うことがあった。
 子供の姿をしているのに思考回路が大人のそれと同じだからという訳でもなく、話をしていると時折、どこか全てを見透かすかのような物言いをするからである。
 ヤンが と出会ったのは、つい2週間ほど前のことだ。
 その短期間で、会ったのは大体片手の指で足りるほどだった。人と人が知り合うには一瞬の邂逅の機会さえあればよいものだが、そこから親交を深め互いをより理解し合うには、更に多くの時間を共に過ごさねば足りないものだと、ヤンは思っていた。
 事実、ヤンは を「知って」いるが、それは表層的な部分に限られた話で、彼女の思考の特性や思想的な傾向など掴めているはずもなかった。せいぜい、笑いながら毒を吐いたり、直截な物言いが多いといった、ほんの少々の手がかりを持っているだけだ。
 それなのに、 はヤンを、ヤン自身が嫌になるほど確かに「知って」いた。
 早く年金生活したいと思っていることや、いかに楽をして任務をこなすかを考えているといったレベルに留まらず、彼が民主主義や専制政治について思っていることを がほぼ正確に言い当てたとき、ヤンは黒髪の少女の底知れなさを「知った」。
「せっかく作ったのにな。ま、いいや、とにかく食べましょうか、ヤン提督」
「…そうしようか」
 ヤンは胸にわだかまる正体不明の気持ち悪さを押さえつけ、 と同じテーブルについた。
 本日の料理長は であった。
 元はやんごとなき出身のはずだが、彼女は食品を美味と呼びうる状態へと加工可能な能力の持ち主だった。つまりは、料理がうまいのだ。しかも子供のくせに、酒のつまみになるような料理を提供してくれるので、近頃はヤンとアッテンボローの良き酒の友状態となっている。
「お酒もどうぞ沢山召し上がってくださいね」
「ありがとう」
 アッテンボローが不在だから酒は飲まないでおこうと思っていたのだが、抜栓済みのワインボトルを傾けられては、否と言い難い。
 グラスを手に取ると、つい喜んで飲んでしまう程度には、ヤンも酒が好きだった。
「いいですね、私も飲みたいなー」
「君はまだ早いよ。楽しみは10年先にとっておきなさい」
「はーい。それじゃ、私は目の前の料理って楽しみを味わうことにします。あ、ヤン提督、マリネをお取りしますよ」
 ものすごく羨ましそうに酒杯を見る少女を、ヤンは頑張って威厳あるように見える表情で窘めた。
(こうしてみると、ただの可愛い女の子なんだけどな…)
 食欲を誘う料理とともに、少女に抱いてしまう苦手意識や会話の間を埋めるために杯を重ねたヤンは、食事を始めて1時間半ほどで意識が揺らぎ始めていた。酒豪に分類されるヤンだから、揺らぐといっても普段よりは饒舌になるとか、笑いやすくなるとか、理性が道を譲りやすくなる状態になる程度だ。
 しかし、日頃から退化の一途をたどっている反射神経は、普段よりもさらに機敏とはかけ離れた働きしかしてくれなくなっていたので、 がいつの間にか用意したグラスに酒瓶をかっさらって傾けるのを、止めることができなかった。
 声を上げる間もなく、幼い少女はアルコール度数15%の赤褐色の液体をごくりと小さな体に流し込んでしまった。
「あ、何をするんだい、 ! 君、まだ子供じゃないか…」
「子供だって、飲むことはできます。んーおいしー、普段と違う場所にいるのにその土地の酒を飲まないなんて、やってられないですよ」
 ヤンとしては、酔いが一気に醒めると言うものだ。
 一応はアッテンボローからの預かり子なのだ。監督不行き届きもはなはだしすぎる。
「そりゃあ誰だって飲むことはできるだろうけど、未成年の飲酒は法律で…」
「いいじゃないですか、私、精神年齢なら40歳は越えてるって、よく言われるんで」
「この場合は肉体年齢が重要なんだ、あ、ああ…」
 ヤンがどうにかして止めさせようと伸ばした腕もすいっと避けた は、そのまま二口、三口と酒を飲み下してしまう。
 そこでヤンは気付いて、今にも杯に新たな酒を注ぎ足そうとしていた の手から、酒瓶を奪った。
「駄目だ! 君にはまだ早い!」
「そんなことないです、私はお酒の味の楽しみもよーっく、わかって、るんっ、で?」
 つい一瞬前まで何事もなく喋っていたはずの の顔が、真っ赤に変化していく。
  はきょとんとしつつ、上気した頬を小さな掌で包んだ。
「あれ、ぽかぽかするー」
「当たり前だ! 子供が慣れない酒なんか飲むから、アルコールが回り始めたんだ!」
 普段は温和で通っているヤンも、この時ばかりは声を大きくしてしまった。
「おっかしーなー、私、結構飲める方だと思ってたんだけどな…」
 その呟きを耳にして、ヤンは少女の以前の保護者達の常識というものを疑ってしまったが、 が言っているのは無論、大人の身体を持っていた頃の話であった。
「だって、まだグラス一杯も飲んでっ、ないのに。でも、ま、いっかー?」
「よくない!」
 とろんとした笑みを浮かべる は、明らかに酔い始めているようだった。
 ヤンはこれ以上飲ませまいと、ワインボトルを死守する。
「あ!」
 ヤンの背後を見つつ、 が目見開いて大声を上げる。何事かとびっくりしたヤンは、つられて背後を振り返る。そこには、何もなかった。
 そして、しまったと思いながら正面へ顔を戻すと、 がヤンのグラスを奪って、再びアルコールを飲んでいる光景が目に入った。
「もー、防御が薄いですよーヤン提督ー。あは、おーいしーなー」
 酔いのためではない頭痛が、ヤンを襲った。
(これは…どうすればいいんだろう…)
 厄介事の種を置いて行ったアッテンボローを、ヤンは恨みたくなった。
 とりあえずは血中アルコール濃度を低下させようと酒瓶とグラスを取り上げ、水を用意しにと立ち上がったヤンの右手を、赤い顔をした が掴んだ。
「どこ行くんですかー、ヤーン・ウェーンリー」
「君のために水を用意しようと…」
「そんなこと言って、お酒をー、飲まないつもり?」
「いや、私は飲むのは嫌いじゃないんだけど、君が…」
「まあ、いいじゃない。座って。ほらー、提督のグラスが空! 空いてる! 飲まないで人生やってられないでしょ!?」
 空にしたのは君じゃないかと思ったヤンだったが、酔っ払いには何を言っても通じないだろうと悄然と項垂れる。
「ほんと、私もやってられないわー、お酒も飲めない子供なんて許せなーい」
(それは常識的に間違ってないんだが…)
 とにかく水、水が必要だとヤンは に掴まれたまま右手をどうにか脱出させようと四苦八苦した。成人男性と子供の体格差があるので、力任せに引っこ抜いたり振り払ったりすればすぐに自由になれるのだが、ヤンとしてはそのように荒っぽい手段は取りたくないのだ。
 戦術や戦略を練ることにかけては宇宙に並ぶもののない性能を発揮する脳細胞も、酔っ払いの振りほどき方については良い解決策を思いつくことができないようだった。
 ヤンは宥めるように、少女の小さな手に空いた左手を重ねる。
「さあ、この手を離して…すぐに戻るから」
「嫌! いやー、どこにもいかないでここにいて!」
 両手のみならず、体ごとヤンの右腕にぶらさがる少女に、ヤンは理性的な言語による説得をいよいよ諦めた。
「わかったよ、ここにいるから…だから、ほら、この体勢は辛いだろう?」
「だって、離したらヤン提督はいなくなっちゃう…」
 思わず中空を仰いだヤンである。今まで信じたことのない神という存在に祈りを捧げたいくらいだ。
(どうにかしてくれ)
 そもそも、ヤンは子供相手が得意とはいえない不器用な性質である。保護者のユリアンだって、子供らしくない性質だからなんとかなっているというのに、このように駄々をこねる子供、しかも女の子にどのように返したらいいのか、エル・ファシルの英雄と呼ばれた青年には全くもってわからないのだ。
「…私はここにいるよ…ほら」
 膝を折って、椅子に座る と目線を合わせる。
 少し安堵した表情の が、甘えた声で言う。
「うん…ねえ、ヤン提督…」
「なんだい」
  はまだまだ短い腕を精一杯伸ばし、ヤンへと体温の高い体をしがみつかせた。
 回された腕や、首筋をくすぐる黒髪がくすぐったい。
(もしかして、寂しいのかな)
 精神的に達観しているからといって、子供であることに変わりはないはずだ。普段は何でもないように装っていても、実は故郷や家族が恋しいのかもしれないと思ったヤンだった。
「目を瞑って」
「え?」
「いいから」
「あ、ああ」
 少女の要望の通り、視界を闇に閉ざす。
 鈴の鳴るような可愛らしい声が、すぐ近くで聞こえた。
「いただきます」
 唇に柔らかな熱を感じた。
「!?」
 目を見開くと同時に、口元の感触は遠ざかる。
 悪戯っぽい黒い瞳が間近にあった。そしてヤンを覗き込むよう問うてくるのだ。
「もっと沢山、食べてもいいですか?」
 何を、とヤンは問うたりはしなかった。
「だ、駄目だ!」
 慌てふためいたヤンは、とにかく少女から離れようと上半身を捩る。
 だが首に巡らされた の腕にバランスを崩し、ヤンは少女もろとも床に倒れこんだ。
「いてて…」
 床に打ちつけた後頭部を擦りつつヤンが体を起こそうとすれば、腹の上に馬乗りになる が体重をかけて肩を押さえつけてきた。
「ヤン提督、私、もっと欲しいなー」
 何を、とは断じて尋ねたくないヤンである。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、私はこれでも27歳で…き、君は何歳だ!?」
「私はですねー、中身は20歳越えてますよ?」
 なんたって精神年齢40なんでーと、けらけら笑う に、ヤンは勢い込んで反論した。これほどまでに熱心に相手を説得しようとしたことが、未だかつてあっただろうか。
「さっきも言ったけど、この際は肉体年齢が重要なんだ」
「えー? それじゃ、私は10歳です」
「酒と同じだ。君にはまだ10年は早いと私は心の底から思う」
 ヤンの必死さや真摯な心が伝わったのだろうか、 は一旦、動きを止めた。
 しかし、それは単なる一時停止にすぎず、すぐに動き出して顔を近付けてきたのだった。
「だから、子供だって…」
(や、やめてくれー!!)
 心の中で盛大に叫び声をあげたヤンは、ついに実力行使に出た。
 普段は怠惰にまかせている全身の反射神経と筋肉を総動員し、上半身を力まかせに跳ね上げる。
「きゃっ」
  は投げ出され、ごろりと床の上に転がり落ちた。
「はは、ははは…ヤン提督…ひどーい」
(ひどいって言いたいのはこっちの方だよ…)
 床に寝ころんだまましばらく笑い声をあげていた だったが、気付けば目を瞑って静かになっていた。
「眠った…?」
 ヤンは少女の顔を覗き込む。安らかな寝息を立てて、 は急な眠りに落ちてしまったようだった。
 酔いが更に回って、睡魔に襲われたのだろう。
「ふう…」
  のことを底知れないと不安に思っていたが、少なくともこの数時間で新たな に関する知識を手に入れたヤンだった。
「君のことはよくわからないけど、少なくとも酒癖が悪いってことは、よくわかったよ」
 ヤンは溜息とともに眠る少女へ、誰も知らぬ愚痴を零したのだった。



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