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「あれは何の人だかりかな」
 ある午後の昼下がり、彼は雑踏の中でエル・ファシルの英雄およびアスターテの英雄およびイゼルローンの英雄、そして魔術師とも、奇跡の人とも呼び習わされる、ここイゼルローン要塞司令官のヤン・ウェンリー大将閣下のまったく軍人らしさからは縁遠い気の抜けた声を耳にし、腕の中の物を見られぬよう顔だけ振り返った。
 ヤン・ウェンリーという人物は、声だけでなく外見も高位の前線指揮官と信ずるには難しい覇気の薄さである。ついて回られるのを嫌がって護衛の一人もつけていないから、階級章さえなければ、考え事の際に握りしめる癖のせいでくたびれたベレーをひっかける黒髪の青年の頭脳が、宇宙でもどれほど貴重なものであるのか、その本来の価値を推測することは困難だった。
 それがヤン・ウェンリーの為人と納得する部分もありつつ、個人的には諸手を挙げて全面肯定をする訳にはいかぬと、彼は常々思うのであった。彼にとって、指揮官や上官というのは最低限の威厳を持たねばならぬものであったし、イゼルローン要塞における最重要人物として身辺の安全に注意を払うのは最低限の義務であると感じられた。
「ん? ああ、あの角のですか。俺もよく知らないんですけど、ハイネセンで人気の菓子店がこっちにも出店して行列してるってポプランが言ってたから、その店ですかね?」
 ヤン・ウェンリーの傍らには、鉄灰色の髪を持つ青年将校のダスティ・アッテンボロー少将――彼もまたイゼルローン要塞駐留軍における首脳陣の一員である――がおり、二人は人通りの多いメインストリートでも一際、人の集った一角を物珍しげに眺めていた。
 彼はイゼルローン要塞司令官に対する以上に、要塞駐留軍分艦隊司令官に対して頭を痛めることが多かったので、眉間の皺を普段よりも一本増やし、今すぐこの場から立ち去るべきであろうと思案した。手の内の物を見られたなら、またどんな噂をされるか、わかったものではない。
「菓子? そういえばキャゼルヌ先輩が話していたな。シャルロット達が近ごろ人気の菓子を食べたがっているって」
「それなら俺、買ってきますよ。今夜はキャゼルヌ家でオルタンス夫人のうまい飯をご馳走になるんだから、手土産の一つくらい持って行かなきゃいけませんからね。普段は何かと酒ばかり持って行ってるし、あの家の真の権力者へ貢ぎ物を捧げるにこしたことはないでしょう。先輩はその辺のベンチに座って、少し待っていて下さい」
「並ぶと言っても10分くらいだろう? 私も一緒に並ぶさ。どうせ今夜、厄介になるのは同じなんだし、ユリアンにも食べさせてやりたい」
 士官学校時代から十年来の付き合いがあるという二人は、高級士官としての威厳の欠片もなく、街角の行列の最後尾に向かっていった。
 時間つぶし用に店の壁に張られたメニューを見つけた彼らは、今更のように買い求めようとしている菓子が何であるのかを知ったようだった。
「なになに、タイヤキ? 魚型のワッフルの中に漉した豆と砂糖を合わせたスイートビーンが詰まってる? おいしいんですかね、これ?」
「ワッフルにジャムやチョコをかけて食べることを考えれば、二枚のワッフルに甘い具を挟むのは妥当だと思うよ。けれど、魚の形にする必要があるんだろうか?」
 魚型であるからこそ、タイヤキという名なのだということを、彼は知っていた。
 彼の家には先祖代々、魚の型の鉄板が伝わっていた。人類がまだ太陽系第三惑星に閉じ込められていた時代、彼の先祖はその鉄板で作る菓子――タイヤキを商っていたのだという。アーレ・ハイネセンと共に「長征一万光年」を経て自由惑星同盟の市民となった先祖は、アルタイル星系での過酷な労役に従事するときも没収された家財道具の内にあったタイヤキの鉄板が忘れられず、ロングマーチの間に死去するも遺言として鉄板の復興を言い残し、バーラトの可住惑星に辿り着いたその子孫が鉄板を新たに鋳造したのだという。
 地球時代から既に千五百年、アーレ・ハイネセンらが「長征一万光年」を終えたのも、既に八百年近く前のことであるから、彼の家――ムライ家に伝わる話の真偽はわからない。けれども、とにかく魚型の菓子を作り出す鉄板の型はムライ家に受け継がれていたし、彼も子供の頃に幾度かその伝統菓子を味わっていた。だが菓子を作ってくれた祖母や母が死に、女兄弟のいなかったムライ家で鉄板を活用するものは途絶え、彼はその味を懐かしく思いつつも忙しない日々にタイヤキの存在を忘れ去っていた。
 しかし、ここ数年、ムライ家のように地球時代のレシピを継承していた者がいたのか、タイヤキが市井に出回るようになったのだった。魚型ワッフルのどこかふてぶてしく不細工な顔つきが人気を得て、ここイゼルローン要塞にまで出店されたのは、彼にとっては喜ぶべきことであった。子供の頃に覚えた味というのは、時に無性に恋しくなるものである。ダスティ・アッテンボローやオリビエ・ポプランと言った彼から言わせれば「歩くお祭り騒ぎ」の連中からは「歩く小言」の名を奉られている彼にも、幼い子供時代というのはあったのである。
(どうすべきか)
 ムライはまだ暖かい手の内の袋を見下ろして、悩んだ。
 栄えある自由惑星同盟軍の若手将校の二人が、菓子を求めて店の前に軍服のままでたむろす図というのは、彼の常識的観念を強く刺激した。むろん、本日の彼は非番で、服装もセーターにスラックスという民間人と同じ姿なのである。彼の中の高級士官は、軍服姿で人気の菓子を買うために店の前に並んだりはしないのだ。
 少しばかり時間を費やして買った戦利品ではあるが、今食べなければ二度と食べられないと言うわけでもなく、さほど困ることはない。
 ヤン・ウェンリーは普段から軍人らしくない軍人ではあるが、かといって司令官閣下の威厳をこれ以上失墜させる状態のほうが、ムライにとっては由々しきことであった。
 とはいえ「お祭り騒ぎ」連中の噂話のネタになるとすれば、これから一ヶ月間は普段より頭の痛い率が高くなるに違いない。
 常に引き締められている口元をへの字に曲げ、彼はしばし立ち尽くしていた。
 そのようなムライに、近付く者があった。
「やあ、奇遇ですな、ムライ少将」
 バリトン歌手のように朗々とした低音で彼の名を呼ばわったのは、同僚の巨躯の持ち主であった。
「パトリチェフ准将」
 彼は常になく焦った気持ちで、パトリチェフを振り返った。よく響く声で名を呼ばれては、彼らに気付かれてしまう。
「どうなさったんです、こんなところで」
 問いつつ、パトリチェフは彼の手元の袋に視線を向け、破顔した。特徴的な気の抜けた魚が描かれた包み紙は、その中身が何であるのかすぐに見破られてしまうものなのだった。
「これは意外だ。ムライ少将が自らタイヤキを買われるとは。先日、私も並んで食べてみたのですが、あまり甘くなくて幾つでも食べたくなる味ですな。今日はご家族への土産で?」
 ムライは、しばし黙考した。そして、一見、普段通りの硬い表情でタイヤキ十個入り袋をパトリチェフに差し出した。
「これをそこで並んでいるヤン司令官と、アッテンボロー少将に。くれぐれも私の名前は出さないでくれ」
「はあ」
 いきなり突き出された袋に目を白黒させながらも素直に受け取ったパトリチェフは、理由を問う前に踵を返し背筋を伸ばしてやや早足で去っていくムライの背中を見ることになった。
 そこで並んでいるヤン司令官、という言葉に行列を見やったパトリチェフは、確かに収まりの悪い黒髪をベレーで押さえつけている上官と、その後輩を発見した。
(なるほど)
 参謀長の性質に思い当たるところがある副参謀長のパトリチェフであった。恐らく同盟軍の将校が二人雁首揃えてタイヤキを買う図というものが、彼には耐え難かったのだろうと、ムライの胸の裡を正確に読み取ったのだった。名を出さぬようにというのは、菓子を買うことや、それを譲ろうとすることに気恥ずかしさを覚えたのだろう。それにアッテンボロー少将とムライ少将は、いわゆる水と油である。嫌い合うといわけではないが、互いに苦手な性質と感じているだろうことは間違いなかったので、面と向かって渡し難いはずだとパトリチェフは想像した。
(まったく、不器用な御仁だ)
 パトリチェフは嘆息し、仄かに熱を伝えてくる袋を抱えてヤン・ウェンリーとダスティ・アッテンボローの元へ歩み寄っていった。
「ヤン提督、アッテンボロー提督」
 豊かな声量で名を呼べば、仲の良い先輩後輩は話を止めてパトリチェフを仲間に迎え入れた。
「パトリチェフ少将もこのタイヤキってやつを買いにいらしたので?」
 ヤンの麾下でも圧倒的な体躯を誇り、自分が周囲からは食いしん坊と思われている節があることをパトリチェフは理解していた。実際、食べることが嫌いではなかったので、その印象を訂正するつもりもなく、アッテンボローの面白がる表情にも笑顔を返した。
「ええ、まあ私は先程買って、もう食べ終えたところです。けれど沢山買いすぎまして余ったので、これから買おうとなさっている閣下にお譲りしようかと思ったのです。恐らく10個ほど入っているので、どうぞ召し上がって下さい」
 パトリチェフは、あっさりと悪意のない嘘をついた。彼は自分が権謀術数に長けた参謀ではないことを知る反面、一応は准将の位階に上った者として、多少の腹芸は備えているのだった。
「十個あれば、キャゼルヌ先輩のところと、俺たちとユリアンで、3つ余った分は子供達が二つ取ればいいし、丁度良い数ですね、ヤン先輩」
「ああ。だけど、本当にいいのかい? パトリチェフ准将」
「小官は腹が一杯なのです。これは作りたてが美味しいですから、残して明日食べるというのも味気ないので、どうぞ遠慮なさらず貰って下さい」
「うん、それじゃあ有難く頂くことにするよ。ありがとう、パトリチェフ准将」
 代金を支払おうとしたヤンとアッテンボローを、分厚い掌を振って押し止めたパトリチェフは、目的の物を入手して並ぶ必要のなくなった行列から二人を引き離した。それがムライが一番に望むことであったろうから。
 挨拶を交わし、パトリチェフはついぞムライの名を一度も出すことなくその場を去った。
 別に自分が親切をしたように見せかけてヤンからの好意を横取りしようとしたわけでなく、純粋に同僚の希望を尊重したためである。
 次の宿直ではムライにタイヤキを差し入れてやろうと決めたパトリチェフは、後にその通り実行し、ムライ家のタイヤキ鉄板の話を聞くことになった。
 その頃にはタイヤキはイゼルローン要塞における最も知られた「おやつ」となっていたので、パトリチェフはしばしば面白話としてムライ家のタイヤキの伝統をヤンやユリアンに話したい欲求に駆られたが、のちのちまで彼は生真面目な同僚を笑い話にすることはなかった。


タイヤキ


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