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偽りの日々



 ラインハルトは、甘いものが嫌いではない。
 おそらくそれは、幼い頃に姉が作ってくれたアップフェルトタルトやクリーム入りのココア、蜂蜜をたっぷり使ったパンケーキなどに起因する嗜好なのだろうと思う。普段は記憶の底に眠っている、彼の傍らに姉のいた日々が、甘いものを食べると蘇る。昔食べた味に比べればいずれも劣るとは思うものの、舌に感じる甘美な糖分は、大方の場合ラインハルトを幸せにさせた。
「…悪くない」
 本人曰く偽名(失礼極まりないと思うのは、おれだけだろうか)によればという身元不詳の貴族令嬢に勧められ、タイヤキを食べたラインハルトの感想がそれだった。間抜けな魚の形のワッフルに甘い具が入った食べ物で、ラインハルトは生まれて初めて食べた菓子である。
 一口目は少し警戒しつつ齧り付いたものの、二口目には先程よりも大きな範囲を含んで飲み下す。幼年学校の食事にはない美味しさと育ち盛りの欲求に負けて、ラインハルトはあっという間にワッフルの魚を腹に収めた。黒い中身の見映えは悪いが、口に優しい甘さはラインハルトを充分に満足させる味わいをしていた。
「もうひとつ食べる?」
「食べる」
「ね、おいしいでしょ? あんこも悪くないでしょ?」
 問われて反射的に答えたものの、いささかばつが悪い。
 紙袋から取りだしたタイヤキをは何のてらいもなく差し出してきたものの、その菓子を先程のラインハルトは胡乱な眼差しで見て、毒入りではないかとまで言ったのである。
 まず、顔が不細工なのが気に入らなかった。変な形だと言うと、はこの形がタイヤキの真髄であると主張する。次に、中身は何だと問うてが割って見せた中身の色に、ラインハルトは身を引いた。およそ真っ当な食べ物の色とは思えない、暗褐色と黒の合間の中身だったのである。
「キルヒアイス様も、もうひとついかが?」
「…それでは、いただきます」
 キルヒアイスはラインハルトとは違い、馴染みの薄い菓子にそれほどの抵抗感を表に出さなかったものの、タイヤキを裏返したり横から見たりと観察した後に食べたことから、多少なりとも躊躇いがあったのだとラインハルトは思っている。
 はラインハルトとキルヒアイスにそれぞれ新たなタイヤキを手渡し、自身も食べかけの魚の背びれに齧り付いた。
 ラインハルトがこの黒髪黒目の少女と会うのは、これが四度目である。一度目は、幼年学校入学直後にニーダーフェルトで出会った時のことであり、二度目はそれから半年以上経ってからオーディンで食事をした。三度目にはその年の秋に会い、そして四度目の今日、ラインハルトはに誘われてオーディンの中心部から離れた郊外の緑地公園で顔を合わせている。
 季節は四月の一日、陽の暖かい昼間ならピクニックには最適の天気だった。ラインハルトたちは芝生に敷布を広げ、が持参した弁当を食べ、しばらく公園を散策した後、おやつの時間といってタイヤキを手にしている。
 こうして接していても、が何の思惑あって自分たちと遊んでいるのかわからないと、ラインハルトの内心には疑いが根を張ったままだ。だが、二度目に会った時ににはこちらを積極的に害そうとする意思は見られないと、ラインハルトとキルヒアイスは頷きあいもした。
 ラインハルトが二つ目を平らげる頃、もようやくひとつのタイヤキを完食したようだった。最後に残った茶色い尻尾をぱくりと飲み込んで、満足げに目を細めている。その姿は、気取ったところが全くなく、ひどく無邪気だ。
(これも、名前のように偽物なんだろうか)
 信じるための情報がラインハルトの手元には不足している。会って遊び、食事を共にして、それでもラインハルトの中の疑心は消えることがない。
 ラインハルトにとって、姉アンネローゼと、友のキルヒアイス以外はいまだ信じるに値しない。見返りのない好意の存在を認められるほど、ラインハルトはもう幼くはない。いや、十一歳と言えばまだ子供には違いないだろうが、胸に大望を抱く彼にとって身近な者をひとり作ることさえ危険なことであったし、そう思考するだけの頭脳が彼に具わっていたのである。
 だが仮にが本当の名を彼に打ち明けたとして、それがどのようなものならば自分は納得するのだろうと考えると、今の時点ではラインハルトはきっとに対する隔たりを無くすことは出来ないのだと思う。
(なぜ、おれはの本当の名を知りたいと思うのだろう)
 そこで、ラインハルトの類い希なる頭脳は思考を停止させてしまう。秘密を暴きたいという好奇心、我が身を守ろうとする警戒心、そのどちらもラインハルトの中にはあり、けれどきっと正しい答はその二つでは埋まらない。
「このタイヤキというお菓子は、初めて見ました。どこで売っているのですか?」
「えっと、そうね、訊いた話だとまだ売ってないみたいよ? これ、私も伝手で頂いたものだから」
 キルヒアイスの問いかけに、という少女はにこやかに答えた。
「でも、近い内にタイヤキを売る店を出すという話も訊いたわ。開店したら、お二人にもお伝えしますね」
 楽しげに談笑する二人の傍で、ラインハルトはお前の本当の名は何か、と言葉にしたい衝動に駆られた。
 この胸に残るわだかまりを、すっきりさせたい。それとも、この少女と二度と会わなければ、自分は曇り空に似た心を忘れ去ることができるのか。
 だが問い詰めても、きっとは名を明かさないような気がラインハルトにはした。慎重に慎重を重ねたように、身元に繋がる情報をひた隠しにしている相手だ。
 以前に会った時、ラインハルトはその質問を既に投げ掛けて、結局は真名を手にすることができなかった。
 重ねて、ラインハルトはこうも問うた。
「おれたちに近付く目的は何だ?」
 問われたは、きょとんとした顔でラインハルトを見返していた。
「俺の姉は皇帝の寵姫だ。そんなことくらい、お前も知っているんだろう」
 その頃には姉のアンネローゼはグリューネワルト伯爵夫人の称号を賜り、宮廷の内外でミューゼル家といえば嘲笑や嫉妬の渦中で囁かれる名となっていた。がどこの貴族の令嬢だとしても、ラインハルトの置かれた立場を知らずに接しているとは思えなかったのである。
 眼光鋭く睨み付けるラインハルトの威圧感などまるで意に介さぬようは笑って、事も無げに言った。
「取り入ろうと思わせる程の何かが、いまのミューゼル様にはおありですか?」
 それはラインハルトの予想しなかった、強かな反撃であった。
 ラインハルトは、いまだ幼年学校の生徒でしかなく、持てるものは自分自身しかない有様だった。たとえ皇帝を引きずり降ろすと叫んでも、きっと誰も信じないような小物でしかないのだ。
「私は、そういうことは気にせずミューゼル様と遊びたいと思っているのです。そして、私自身の身分も今は置いておきませんか。私は、あなたはラインハルト・フォン・ミューゼル。それで、何か不都合なことがありますか?」
 そう言われると、ラインハルトには引き下がる以外に術がなかった。
 言いくるめられたと自覚しても、反論するだけの根拠がラインハルトにはない。
「そういえば、この中の黒いあんこというのですか、これはどうやって作られるのですか」
「あんこ? そうね、実はあんこの木というのがあって、黒い実がなるからその中身をくり抜いて潰して、砂糖と混ぜるらしいんです」
「そうなんですか、あんこは植物だったんですね」
 キルヒアイスは後日調べてみると言って頷き、黙りこくるラインハルトへ同意を求めた。他人にも優しいキルヒアイスなりの、ラインハルトと、そしてに対する配慮なのだろう。
「そうだな」
「あんこの木は大きく育つんですよー」
 やけにご機嫌な様子のと、この先いかに付き合っていくべきだろうかとラインハルトは春の温い風に吹かれながら思った。
(信じるとは、難しいことだな)
 そして後年、そのことをラインハルトは少しの感傷と共に思い出すのだった。



後日談

 後日、から一通のメッセージカードが届いた。会ってから三日も経っていなかっただろう。
 その書き出しは、このように始まっていた。
「ごめんなさい、私はあなたたちに嘘をつきました」
 どきりと、ラインハルトの胸が跳ねた。ついには真実を打ち明けようというのだろうか。
「あんこは、木になったりはしません。あれは、あずきという豆を潰して漉したものです。あまりにも簡単に信じられてしまって、嘘って言い出せなかったんです」
 その謝罪の下には、地球時代には四月一日にどのようなことが行われていたのか記されていた。
「すっかり信じ切っていました。全然気付きませんでしたね、ラインハルト様」
「…ああ」
 それで、ラインハルトは一つについて知ることができた。
 は、嘘をつくのが上手いのだと。


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