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 いつものように葡萄酒を味わっていると、フギンが鳴いた。
・フォン・ ?」
 聞き覚えのない名だ。黒い愛鳥の示した世界にいるその人間が自分にとってどのような意味を持つのか、彼は全く思い出せない。
 覗き込んだ鏡の中に映る黒い衣服を纏った黒髪の少女の顔を見て、彼は朧気ながら以前に同じ顔を目の当たりにしたような気もした。
 だが既に数えきれぬほど長き時を生きる彼にとっての記憶は、一時間前も百年前もさほど変わらず混沌と入り交じって、その少女に関わる出来事が何であるのか皆目見当もつかないのだった。
「はて、誰だったか」
 血のように赤黒い酒を、一口、二口と再びふくむ。
 もう一羽の黒鳥ムニンの鳴き声に耳を傾け、それがいつか気まぐれに魂を入れ替えた少女であることに、彼はようやく思い至った。
 うっかり間違えて呼び寄せた少女の願いを、彼は気紛れに叶えることにしたのだった。みんなを幸せにする云々、という話だ。
 とはいえ、彼が行ったのは別の世界の魂を少女の器に移したことだけで、その後は時が流れるに任せていた。最初は面白がって様子を見ていたのだが、そのうち飽いてしまったのだ。
 フギンが鳴いたのは、彼の投げやりな言いつけを守ってのことらしかった。
 何かあれば教えろとは言ったが、あの子供の親が死んだことは、さほど大したことのように彼には思われなかった。
 人はみな等しく死ぬ。そして選ばれた者だけが彼の宮殿に招かれるのだが、死んだ二人は取り立てて英雄と言われる素質はないようだし、数多の人間と同じように何事もなく次なる生が与えられるように見えた。
「なに、大事なのは少女に移された魂?」
 フギンは声高に彼を責めた。彼の愛鳥は、存外にいつぞや自ら見繕った女が気に入っているらしい。
 違う世界に問答無用で飛ばされた女が、元の世に戻るため自分も死んでみるかと思い悩んでいるから、どうにかしろと言う。
 彼が手違いで招いた少女である が親の葬式にも立ち会えないのは不憫だと、自責の念に駆られたらしい。
 自意識が消えれば元に戻るという発想らしいが、それは全く正しくない。女の死は即ち という少女の肉体の死であるし、そもそも少女の魂は既に亡いのだ。
「どうにかしろと言われてものう。死なせてやれば……わかった、わかった。そのように喚くな。一声かけてやれば良いのだろう?」
 彼はそうしてフギンに怒られるまま、別世界で少女となった女に託宣を与えることにした。
 女が死んで困ることはないが、フギンにへそを曲げられると厄介なのだった。
 それに神である彼は、大概のことに飽いて暇を持て余している。自ら関与した人間に、新たな一石を投じるのも良い暇つぶしかもしれなかった。
 曲がりなりにも神として言葉を告げるからには、多少の小細工が必要なように思われる。
 彼は夢に現れることにした。
 神々しく後背を光らせ、足元は雲霞で覆ってみる。そして青い外套と三角帽子を纏い、愛用の杖を片手に持ち、肩にはフギンとムニンを侍らせて三日三晩続けて夢枕に立った。
 初夜には自らがオーディンであることを名乗り、神としてこの世界に呼んだことを告げた。女を呼んだ経緯はムニンに言われて思い出したが、どうにも威厳に欠けたので、彼はいつぞや使った言葉を再び用いた。
「お前がこの世界の少女となったのは、定めである」
 フギンによれば、少女となった女は夢から覚めた後、いよいよ自らの頭がおかしくなったと、さらに思い悩んだという。
 一方的にこちらの言い分ばかりを語るのは逆効果とフギンは言うが、直に言葉を交わすには制約が多い。神といえど、力には限りがある。
 良い方策がみつからぬまま、次の夜が訪れ、彼は再び夢へと赴いた。
 耳元でフギンが囁くままに、彼は語る。
は既に魂の輪廻に帰った。お前が死しても、あの娘は戻らぬ。そしてお前が元の世界に戻るのは、全てを見届けその身体の天寿をまっとうしてからである。何かせねばならぬということは、何もない。自ら死すことは認めぬが、それ以外のことは好きにせよ」
 そう告げれば、万事がうまくいくとフギンは言う。
 何も嘘は告げていない。女が少女として生き、そして死んだ暁には、元の世の魂のゆりかごに放り込めばよいのだ。
 彼は別に女に何かを求めているわけでもなく、単にみんなを幸せにする女子爵として相応しいとフギンが選んだからという理由で、女をその世界に導いた。
 ゆえに、何か特別な使命を与えるというつもりは毛頭なかった。
 間違って魂を摘み取ってしまった少女の身体で、思うように生きればそれでよいのだ。
 そして最後の夜、彼は更にフギンの助言を採用することにした。
 夢に信憑性をもたせるにはどうするか。更に、夢に現れる目的は女の死を思い留まらせるには、どうすればいいか。
 少女の親であった二人を、彼は夢に伴った。
 あらかじめ二人には、長生きしろと娘に語りかけるようフギンとムニンが言い含めてあった。
 二人は涙混じりに娘の行く末を心配し、彼の思惑通り女の情を動かすことに成功したようだった。
 彼は仕上げとばかりに夢を信じさせる証拠として、眠る少女の枕元にフギンの黒い羽を残して去る。
 我ながら破格の働きかけをしたものだ。本来なら、人間の一人や二人、どうなろうと知ったことではない。
 フギンが鳴いている。夢から醒めた少女となった女が何を叫ぼうが、彼はもう何もしてやる気がなかった。
 フギンの我が儘も、当分は耳を塞いで知らぬ振りをしよう。
 隻眼を隠す三角帽子を椅子に放り投げ、彼は葡萄酒の満たされた酒瓶を傾けて命の水を杯にそそぐ。
 仕事を終えた後の一杯は、格別うまく感じられた。

ヴォーダンの夢渡り


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