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 近頃のお嬢様は様子がおかしい。ゼルマは思う。
 急にニュースを毎日見るようになり、昨日はコンラッド様にお会いになって、なんと政治や経済について勉強したいとせがんだという。今までそんなものに興味を見せたことなど、なかったのに。
 これまで慎ましやかだが年相応の子供らしい振る舞いだったのが、急に大人びた口調で喋るようにもなった。そうして昨日まで気にするそぶりもなかった事柄に、急に興味を抱いたかのように質問しようとするのである。
 今日は屋敷中の物の値段を訊ね歩いていた。
 朝食に供された普段と変わりない小さなパンが、始まりだった。
「あの固めの丸パンは、街では何マルクくらいで買えるの?」
 お嬢様は、訊ねる相手を間違えることはなかった。
 恐らく子爵家の当主であるカール様と、夫人のヨハンナ様は値段をご存知なかっただろうが、平民出の自分ならばおおよその市価は把握している。
 使用人の心得として、主人の言葉に問い返すことは不作法とされているため、なぜそんなことを訊ねるのか、と沸き上がった疑問を押し隠して、ゼルマは求められるままに答えた。
「あれは屋敷で焼いたものですが、同じようなものなら、おおよそ50ペニヒから1帝国マルクくらいで買えると思いますわ、お嬢様」
「そうなの。それじゃあ、リンゴは一つ2帝国マルクくらい?」
「いいえ、我が領地では果物は多く採れますから、2帝国マルクあれば3つほど買えるのではないでしょうか」
 幾つかの食べ物を挙げた後、地上車や立体テレビ、服、壁に掛けられた絵画、椅子、寝台と目に入るもの全ての値段を、ゼルマは記憶の底から拾って差し出さなければならなかった。
 お嬢様の変化は、それだけにとどまらない。
 何事もしてもらうのが当たり前という風情だったのが、自ら窓を開けようとしたり、本を取ろうとしたり、側に侍る自分を使おうとしなくなった。
 立体テレビを見ていて急に立ち上がり、部屋から出たお嬢様を追いかけると、向かう先は厨房だった。
「こちらに何か御用でしょうか。雑然としておりますから、お嬢様などがご覧になるようなものは何もございませんよ」
「喉が渇いたから、飲み物を頼もうと思って」
 ゼルマは仰天した。慌ててお嬢様を押し止める。
「お嬢様、そのような時はわたくしに仰って頂ければ、用意致します。いつもそうなさっていたではありませんか」
「そう…? ああ、そうだった。えーっと、それならお茶をお願いします」
 厨房へ茶の用意を伝える間にも、ゼルマの中の違和感は膨らんでいった。
 ここ数日のお嬢様は、思いもよらなかった行動を多くなさる。
(まるで、別人のようだわ)
 ゼルマは思って、頭を振った。
 そんなことがあるわけがない。外見は今まで通り、自分が育ててきたお嬢様そのものなのだから。
 
 けれども折にふれて覚える齟齬を不安に思ったゼルマは、同じように子爵家に仕える夫に相談した。
「お嬢様が急に学問に関心を持った?」
「ええ、そうなの。コンラッド様に申し上げて、家庭教師もつけてもらうのだとか。それに今日は物の値段を尋ね回っておられたの。市場でこれはいくらで買えるのかと、そう仰るの」
「世間に関心を持たれたということなのでは? 喜ばしいことじゃないか」
 夫は胸元のスカーフを緩めて頷きながら、どこが問題なのかというように笑った。
「つい一週間前まで、普段通り刺繍やダンスのレッスンも楽しくしてらしたし、今日まで物の値など見向きもされなかったのに…急に心変わりなさるなんて」
「子供は気儘なものさ。それにいずれはお嬢様も子爵家を背負う立場になるんだ。婿を迎えるにしても、実務やその辺の機微を何も知らないというのは、些か不安だよ。それでなくてもカール様は絵画ばかりに関心を抱いておられて…」
 はあ、と夫は溜息を落とした。
 彼は子爵家の中でも実務的なことを多く取り仕切る執事で、子爵家当主たるカールと話すことも多かったし、同じく子爵家の領地運営に関わる統治府の人々との面識も多い。
 そこで耳に挟む子爵家現当主の行状は、決して褒められたものではなかった。実際の所、いまだ先代のコンラッド様によって支えられている部分が殆どなのである。
 企業を誘致しようという計画を進上すれば、カール様は「任せるよ」の一言で済ましてしまうし、領内で失業者が増えていると懸念をしめしても、「そうなんだ」と取り合ってもくれないのだ。
 だから彼らは、そのように領地の将来に関わるようなことを、代替わりしたというのに未だに先代のコンラッドに話して指示を仰がねばならない。
 そうして子爵家に仕える人々は囁くのだった。
 カール様は残念ながら実務には向いておられない。絵画の鑑定士か画家としてのみ暮らしていければよかったのに、と。
 そして目下の懸念は当主夫妻に女児以外に子がないことだった。
「このままでは、婿としてやってくる相手の家にうちの領地は乗っ取られてしまうよ。お嬢様が実務を学びたいというのなら、僕としては歓迎するばかりだ」
「でも…」
「君も不安そうにしないでお嬢様が勉学に励むことができるよう、よくお助けするんだよ、ゼルマ。僕たちのロルフが仕えるときに仕える子爵家がなくなっていたんじゃ、困るじゃないか」
 ロルフは彼女と夫がもうけた一人息子だった。
 彼女の仕えるお嬢様より5歳ほど年上で、今年からオーディンの大学へ進学して親元を離れている。
「そう、そうよね…お嬢様が大人びることも、勉強することも、良いことなのよね」
「寂しいのかい? ロルフもオーディンへ行ってしまったし、お嬢様まで離れていってしまうようで?」
 夫は彼女の肩を優しく抱き締める。
「大丈夫さ、僕たちが忠誠心を持って仕える限り、お嬢様も優しい君を置いてどこへいったりもしないさ。それにロルフは血の繋がった息子なんだ。なに、寂しいのなら沢山手紙を送ってやればいい」
 彼女は夫の慰めに、お嬢様の変化を良いこととして捉えようと思い直した。
 別人のように急に大人びた振る舞いをしたとしても、ゼルマがこれまでも、そしてこれからもお嬢様の乳母であることには変わりがないはずだ。
 できることは、彼女の要望にいつでも即座に応えられる、有能な侍女として働くことなのだ。
 そして毎日を穏やかに暮らせるよう、時には心の支えにもなろう。
 貴い身分のお嬢様を我が子のようだと大それたことは言わないが、ゼルマにとって子爵家の令嬢と共に過ごした時間の重さは何にも換えられないし、お嬢様の幸せも願わずにはいられないのだった。




乳母の決心



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