子爵TOP


僕のお話



 箱一杯に詰められた野菜を、運んでいる途中のことだった。
 穏やかとは言い難い勢いで、厨房の扉が開いた。日曜日には恒例の出来事だったので、誰も驚いたり、扉を開いた人物を改めて見たりはしなかった。僕も周囲と同じく、重たい荷物を抱えたまま数歩進んで台の上に下ろした後、ようやく顔を向けたくらいだ。
 昼食作りの忙しい時間帯を越えた昼下がり、調理器具と食材、そして料理人しか存在しない場所に意気込んでやってくる人物などこの屋敷には一人しかいない。
「お疲れ様でーす。今日のお昼も美味しかったです。特に茸のソテー。季節のものが、やっぱり一番!」
 僕より一つ年下の黒髪の少女が、背後に護衛の青年士官を従えて立っていた。まだ幼いと言って差し支えない年頃の彼女が僕たちの主であり、ここ子爵領を負って立つ領主様だった。
 料理人にとって、美味しいという言葉は最高のねぎらいである。その茸の下ごしらえは僕がしたんだと、少し嬉しかった。けれども、火を入れ、味をつけて皿に盛りつけたのは僕ではない。厨房では一番下っ端の見習いに許される作業は僅かばかりで、僕がオーブンの前に立つことは殆ど無かった。調理の大部分をこなし、厨房を仕切るのは料理長である。
 腕の良い料理人の常として少し出っ張った腹にエプロンをひっかけた料理長が、豪快に笑って言った。
「そりゃよかった。あんまり旬が長くないものなんで、よろしければ明日からも毎日お出ししましょうか?」
「是非そうして下さい。ね、あの茸に前に渡した醤油を塗って焼くと香ばしくて美味しいと思うの。傘の部分に肉を詰めてもいいだろうし、緑の野菜を合わせて…」
 領主様である子爵家のお嬢様は、大層な変わり者…いや、料理がお好きなお方だった。
 僕がこのお屋敷に勤めるようになって半年ほどだが、子爵令嬢ともあろう方が厨房に出入りしていると知って、たまげたものだった。同じ屋敷内と言っても、華やかな世に住まわれる表の方々は、裏方の場である厨房なぞに気軽に出入りしたりしないものだ。
 だから最初にこの方にお会いした時、僕は彼女を家令か使用人の娘なのだと思っていた。綺麗な格好をしているから、子爵家の一人娘である様の乳兄弟か何かだと、僕は勘違いしていたのである。そう、僕はまだこのお屋敷のことを、何も知らなかった。
「ふむ、お嬢様の言うとおりに作ってみますぜ。そうだ、先日もらった茶の粉を使ったプディングを作って見ました。緑色ってのはなかなか食べるのに勇気が要ると思うんですがね」
「苺味の赤いアイスがあるように、緑色のプディングがあっていいじゃないですか。それに美味しければ、なおのこと良し!」
 僕は料理長から目配せを受けて、奥の冷蔵庫から試作品の菓子を取りだして運んだ。言われずとも次に求められることを考えて動けと教え込まれたお陰で、僕は料理長の機微を悟ることには長けたのである。この境地に至るまで何度怒鳴られたかは、思い出したくない。
 野草の色をしたプディングを、厨房の片隅に設置されたテーブルに置く。その机はふだん野菜の皮むきや時間のかかる下拵えをする際に使われているのだが、いつの間にか様の定位置となってしまった。
「ありがとう、ハンス」
 思わず頬が緩んだのを料理長に目で咎められ、僕は慌てて表情を引き締めた。でも、様を見る料理長だって、やけに相好を崩して普段の威厳の欠片もない。人のことは言えないはずであると主張したかったが、それよりも僕はスプーンを取り上げて嬉しそうにプディングを掬い上げる様をじっと見ていた。
 ぱくりとプディングを口にした様は、とびっきりの笑顔で言った。
「美味しい!」
 ふわふわと浮き上がるような気持ちが胸一杯に拡がって、僕は少し唇を噛み締めて、再び頬が緩みそうになるのを堪えなければならなかった。
 あえてはっきりと言うなら、僕は様のことが好きなのだ。
 だって、彼女はとても幸せそうに何でも食べるから、料理を作る者なら誰でも様を好きにならずにはいられないのだ。
 料理人として仕えるには、最高の主に違いないと、僕は確信している。いつの日か一から十まで一人で調理を任せてもらえるようになったなら、一番最初にその料理を差し出す相手は、様以外にいないのだ。
「みんな、もう食べました? とっても美味しいの。一緒に食べましょうよ」
 いつか一人前になったなら。そう考えると、僕はやはり頬が緩んでしまうのだった。
「ハンス、さっさと皆の分を冷蔵庫から出してこい! フランツはもう茶を淹れてるぞ!」
「はい、料理長!」
 料理長の怖い怒鳴り声も、延々と続く野菜の皮むきも、苦にならない。全ては一人前の料理人になるためなのだから。
 色とりどりのソースも、肉の焼き加減も、野菜の湯通し具合も、全て一人でできるようになる。ケーキやプディングも思いのままに作り上げられる。様の持ってこられるレシピだって作り上げて、味の相談にものれるようになる。
 そうなったなら、僕はこの銀河で少なくとも確実に一人は幸せにできると知っている。
 僕は料理で、人を幸せにする。
 だから僕は、料理人になりたいのだった。




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