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令嬢の嗜み



 令嬢の嗜みとは何かと考えると、今は亡きカールやヨハンナからは芸術やダンスといった答が返ってきたことだろう。それが常識的な令嬢概念である。
 しかし、 子爵家の一人娘が嗜み、毎週のごとく専属家庭教師の下で受ける授業は、政治経済と言った勉学と――体の鍛錬、つまりは武芸だった。
「あと1分ですね。頑張って下さい」
 併走するヘルツの朗らかな声が、今の には恨めしかった。
「たらたら走るな。敵に掴まって殺されちまうぞ」
  の背を追いながら野次を飛ばすのは、カイルである。
(おかしい……令嬢の訓練というのは、もっと穏やかなものじゃないの。ここまでする必要あるわけ?)
 ひいこらと重くなった足を上げて庭の端にある林の中を走っているのは、 子爵家の一人娘である ・フォン・ 嬢、もとい である。誘拐事件を機に始めた護身のための訓練を行っているのだが、 は既に十分近くほぼ全力で走り通しだった。
 自分が言い出して始めたこととはいえ、このようにハードな運動を毎週必ずさせられる羽目になるとは思っていなかった。
(甘かった。さすが武門の家柄。さすが軍人と諜報員…)
  は己の認識の甘さを肉体で痛感させられることになった。
 訓練といっても が想像していたのは射撃と、それこそ最初の頃に習っていたような掴まれた腕の解き方や羽交い締めの外し方とかいった、軽い護身術程度のものだった。しかし現実のカリキュラムは、いったい私は何になるためにこんなトレーニングを積むのかという疑問が浮かぶほどハードだった。いや、実はそれほどハードではないかもしれないのだが、実感としては苦労して身体を動かしているという気分なのだった。
(私、インドア派だったんだよね)
  は、スポーツよりも読書を好む方であった。身体を動かすことも嫌いではないが、休日に好んで外を走り回ったり、山に登ったりするタイプではなかった。
 コンラッドは、軍事に関わることは妥協を許さぬ本格派であるとは薄々感じていることだったが、幼い子供に課す訓練も本格を目指す必要はないと思うのだ。訓練の先生役であるヘルツもコンラッドとは考えを同じくしているのか、もしくはそうするよう祖父から指示されているのか、 の訓練メニューは日に日にレベルアップしていた。
 そこに諜報員として体術や射撃を得意とするカイル・シュッツが加わることで、訓練の色合いかなり変化した。より実践的な観点から、幼い令嬢へトレーニングが課せられたことになったのである。
(これは心臓に悪いよー!)
「ほらほら、逃げないと刺されるぞ!」
  は現在、鬼ごっこの真っ最中だった。フィールドは子爵家の庭の一画で、鬼のカイルから10分間逃げ切れば勝ちというゲーム…という名の訓練である。
 身体の小さい に必要なのは、何よりも逃亡と回避の訓練であるという思想は、コンラッド・ヘルツ・カイルの三者に共通していた。ではどのような形式の訓練を行うかという点に関して、『追い掛ける』経験が豊富なカイルが案を出したのが、このゲームだった。フィールドにあるものを利用しながら制限時間いっぱい逃亡すること、可能ならば相手を倒してもよい、そんな鬼ごっこである。
 鬼が一人の場合もあれば、二人の場合もあるが、本日は一対一で総当たり戦を行っていた。 は既にヘルツにも捕まっていて、かつ鬼となった際には二人に逃げ切られてしまった。そして今回の戦いでカイルに負けると最下位である。カイルとヘルツの戦いは、それぞれ一勝一敗となっていた。
 カイルは手に持った細い枝で、 の背を軽くつっついた。追いつかれてしまった。
  は右の木の幹を軸に急旋回し、いくつかの木の枝をハードルのごとく飛び越え、草が茂ったなだらかな坂を駆け下りていく。足の速さはカイルと同程度だが、身体の軽さは が勝っている。障害物や坂を利用すれば、距離を開くことができるのだ。林が途切れると、小さな泉が現れる。そのまま泉の周りを走っていれば、制限時間までは逃げ切れるだろう。そう踏んだのだが。
「馬鹿じゃねえの、障害物のない場所に出てどうすんだよ。俺の方が足早いに決まってるだろ」
「ぎゃ!」
 後ろから追ってきていると思っていたカイルが、突如として横の茂みから飛び出してきて、 の胴を攫った。
「うわー、離してー!」
「はい、終わり」
 米俵よろしく担ぎ上げられた は、悔しさをこぶしに込めてカイルの背を叩いたが、びくともしなかった。
「タイムはどうだ?」
「残り30秒を切ってましたよ。惜しかったですね、 様」
「うう……そうやって、息も、全然、乱れてないところが! なんだか、すっごく、悔しいー!」
 今日も逃げ切れなかったことに、 は腹立ち紛れに叫んだ。今まで15分間、逃げきれた試しがない。鬼役は三者持ち回りで行うが、 が鬼の際は逃げる子を捕まえられず、自らが逃げる立場の時にはすぐに捕獲されてしまう。
 体躯や力の差を考えれば当然のことであるが、実はヘルツとカイルは両手首、両足首に重りを着けてハンディを設けているから、 だけの分が悪いわけではない。みんな一緒にトレーニングできて一石二鳥と笑ったのは、誰だっただろうか。
「お前に必要なのは冷静な判断力と、持久力だな」
「追い掛けられると、焦りが出るものですからね。逃げることだけでなく、相手の情報も常に把握するように気を配らなければなりませんよ」
「…うう。私のバニラとハニートーストが!」
  はカイルの肩の上で、しくしくと項垂れた。この鬼ごっこで掴まるとペナルティがあるのだが、それは訓練後のおやつ抜きというものである。奪われた戦利品は、勝者の胃に消える仕組みだった。
「楽しみですね」
「バニラか。暑いからちょうどいいかもな」
 立場から言えば令嬢のおやつを護衛だけが食べるなど言語道断なのだが、もともと がカイルにのせられて約束をしてしまったために、周囲の侍女、特にゼルマも口出しできないようだった。そしてコンラッドは孫娘に甘いものの、この手のルールは信賞必罰と言って実行させるタイプだった。
(くっ……絶対に、次は勝つ!)
 その後、カイルとヘルツがハニートーストを平らげるのを唇を噛み締めつつ見ながら、 はひとり決意を新たにし、そしてコンラッドやヘルツ達の思惑通りトレーニングに精を出すことになった。
 令嬢にとって、食欲に勝る動機はない。それが 子爵家の合い言葉だった。


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